ひととの距離がうまくとれません。


そんなの昔からなんだけど。
なんだか空回ってる感覚がつきまとう今日このごろ。


必要以上にオーバーリアクションになっている自分に気がつく。
大きな声でしゃべったり、一言余計に付け加えてみたり、
手を叩いて笑ってみたり、好きだと言葉で伝えてみたり。

これは、なんぞや。
怯えた負け犬の遠吠え的悲壮感がある。
ばかみたいなのに必死。必死なのに無意味。無意味だから醒めて焦る。



感情が死ぬ日が来る。
そんな日は一生願ってもこないと思っていたんだけど、
もしかしたら、本当に来るのではないかと思う。
正確には、過去には感情が死んでいたことはあって、
(それは表面的に押し殺していただけだったけど、ずっと続けていたら中身もいつのまにか死んでた)
大切な人たちの出現によって救ってもらって、息を吹き返して、
そのあと願っていたのは感情の死というより、思考の死なんだけど、
思考が死ぬための近道としての感情の死はありかもしれないと思って、
感情の死を願っていたりした日々があるわけなのです。


だけど、物理的な死とは別に、それより先に、感情が死ぬこともあるのかもしれませんね。


そして、それを、今の私は切望せずに済みそう、
いやむしろ、そんなことは起こって欲しくない!と、
声を大にして、腹の底から、言えそう欲せそう望めそうなので、
なんだかんだ言いつつ、ある程度ずつマイペース気味にではあるけれど、
「成長したなあー!!」って背中をばんばん叩いてやりたい気分です。



あのね、あれね、困った時にひっぱりだすやつ。
今や都内では決して会えないA嬢にもらった言葉たち。
あれを、心の中でこっそり唱えるとね、ものすごい揺り動かされるの。
文庫版でお揃いのものではないけれど、買って持ってるもんね。
むしろ紙媒体なんて引っぱり出さなくても、
心の手帳に書いてあるから、そらでいえるんだけどね。


どんなにかっこわるくても、空回ってても、しくじったなーって思っても、
やっぱりだいじょうぶだなあ、って思える言葉を持ってるってことは、
実はすごく強いことなんだなって思った。再実感した。



人が弱ってる時に頼られると「NO」って言えません。
その人がすごく弱ってるわけではなくて、ちょっと弱ってる時。
そんな時に、突き放したりできるわけないじゃん。だってわかるもん。
でも、そんな時に思い出してもらえる私でいたいよなと思った。
たとえ、それが結果的にはただ表面的に慰め合っただけだったとしてもね。