人の振り見て我が振り直すというか…

悩み事を拡散して解消するというのは、まったく大人らしくないことだと思う。でもものすごーーく、よく(often)やってしまう。そしてスッキリしたその後で「ごめんなさい」と小さく思う。でも「もうしません」とは言えない。だってお約束できないから。だけど、それではただ人を傷つけるだけの場合もあるのだと痛感した。傷が大きかろうが小さかろうが、私のために誰かが心を傷めるということを鑑みて、やはり大人らしくなく、できることなら避けた方がよいことなんだと、初めてきちんと気づいた気がする。こういうことがないと気づけない、本当にどうしようもない私なんだけど。
それとはまるで真逆みたいな点も、最近同時に思った。自分がハッピーな安寧な心持ちでいるために、大切な友人がうだうだ、ぐだぐだくだを巻いて愚痴をこぼすことを、全否定して「私には必要ない」と言い切ることは、私にはできないと思った。どんな人だって、誰かに聞いてほしいけれど、結局結論は出せないような悩み事はあるし、本当は結論なんてはなから出ているのだけど、それは選びたくない本心とか状況があったりして、もう少しベターな案がないかとただぐるぐるしていたいだけ、ということだってある。それを、いつまでもただ聞いていりゃいいって訳ではないし、時間は誰にとっても平等かつ有限だから、その時間が無駄に思えたりすることもあるだろう。だけど、その相手に(しかもぐだぐだしている自分が最低だなあと気づいてしまっている)相手に、とことん付き合ってあげたりすることも友情だし、持ちつ持たれつの部分ではないかなと思う。「それこそ断ち切るべき悪習、馴れ合いだ!」と叱られてしまうかもしれないけど。だけど、ダメかもしれないし、潔癖ではないかもしれないけれど、そういう弱い部分を受け入れられるからこそ強くなれたり、優しくなれるのではないだろうか。いつも完璧でいつも美しくあれたら、それはすごいことかもしれないけれど、それが絶対善なんだって信じたくない私は、ただ自分に甘いだけなのかな。
ひとつの物事の両極端の部分を、まざまざと見せつけられたというか感じさせられた気がしたので、とりあえず記録。愚痴とか悪口とか堂々巡りの悩み事とか、人間特有のそれらが、コミュニケーションや関係性の一部に深く関わっていることは事実だから、その一見ネガティブに見える要素とも、上手に向き合って、うまくやっていきたいと思う。