愚かさと賢さ

わたしたちは、無意識のうちに
(それは実際に話をしている時や、後で思い返したりしている時であったりするのだが)
いま話をしている相手が、
愚者なのか賢者であるのかを図っている。


こういう時にこんな意見を言えるから賢者、
こんな事例に対してこういう反応しかできないから愚者、
というふうに、一つの事象に対する相手の対応で、ふるいにかけている。


しかし本当は、どんな意見や反応の中にも
真実と嘘が同居している。
正と誤、善と悪について多少乱暴な言い方をすれば、
ある特定のことに対する自然な反射行動として生じる、
どんな思考や行動の中にも
正しいことと誤ったこと、善きことと悪しきことが
同時に混在しているのだ。


表面行動として発せられた中でも、特にどの部分を切り取って理解するか、は
すべて受け手に託されていて、
常に受け手側が試されているといっても過言ではない。


「あの人は賢い」とか「あの人は愚かだ」と、
わたしたちはあまりにも安易に括って、得心したつもりになって安堵している。
実際には、そうして相手を既存の型に括っているわたしたち自身が、
どう受け取り理解するかという点において、
その時、賢くあったり愚かであったりするだけなのだ。
知性・理性のあるなし、知識・経験の有無にかかわらず、
また、そのことについて意識的であるか無意識なのかという僅かな差はあるにせよ、
すべての人が賢者であり愚者であるのだ。
すべての人たちが、正と誤、善と悪を、内に孕んで存在しているのだ。



わたしたちは鏡のように常にお互いを映し合うことで、
ようやく生きていけるということだ。