ハードルをひとつずつ越えて

thora2008-06-18


ここ二週間くらいかな、
話題の中心になりやすいのは「永い春と結婚」という、
今更ながら大人になったことを深く実感させるものなのです。


十年棲んだ彼女と別れてすぐ社内恋愛で結婚したEさんとか、
付き合って八年目、同棲二年目にして根本のすれ違いを悩むMさんとか、
七年ものの彼氏と別れて略奪結婚へと邁進(迷走?)中のKとか、
三年セックスレスだけど六年間付き合った彼女との結婚を悩むI業の人とか……


もちろん又聞き的なのもあるにはあるけど、
ほとんど最近直接話したヒトばかりで、
つまりはみんな結構自分と近しい=愛しい人たちなわけで。
そうではなく永い春から幸せをつかむ人だってもちろんいるけど、
なんかそういうものにどんどん希望を持てなくなっていくというか、
サンタクロースはいないと知って愕然とする子どもの気分というか…。




多分恋愛だけでなく友情にも、
ひいては家族愛にもいえることだと思うけど、
人間同士の関係性っていうのは
永久不変なものではないんだよね。
わかっててもそれをときどき忘れちゃう。


人とヒトとのつながりには賞味期限があって、
それを過ぎてしまったら、どんどん腐っていくしかない。
かなしいけれど、それは事実。
でも、同じ人との間に、
また新しく関係性を築いていくことはできる。
ひとつめを踏まえた上でのふたつめとして。
でも、それがうまくできずに別れていく道だってある。
それはしかたのないことなんだと思う。




長い時間を一緒に過ごして、
それでも結婚できなかったex-な恋人たちっていうのは、
関係性の更新ができなかった人たちなんだと思う。


お互いがお互いの方を向き合うことで、
恋愛関係は始まるけど、
そのままお互いに近づき続けていくと、
いつかはお互い自身にぶつかってしまう。
すると次には、背を向け合って、
二人の距離が反対方向に離れていってしまう。
最初は「きみがすき きみは きみが」だったのに、
距離が離れると「きみがすき わたしは わたしが」へと
言い分が変わっていってしまう。
自分の都合にあわせて
相手が変わってくれるべきだと思い始めて、
同時にその関係性は終わりへと向かっていく。
最初は「きみはきみは」だったのに
最後は「わたしはわたしは」になってしまうなんて、
そしてそれが結局は別れへとつながっているなんて。


結婚して次へとコマを進める人たちは、
ひとつのチームとして
人生のプロジェクトを
乗り越えていける相手だったんだと思う。
それはたとえば、
家を買うとか子どもを育てるとか、
一緒に暮らすとか親族と会うとか、
小さなことから始まる諸々だったのだろうけれど。


どれだけ好きでもどれだけ好かれていても、
一緒にハードルをクリアしていけなければ、
同じプロジェクトを成功させていくことができなければ、
一生そばにいることなんて、多分できない。
自分の生きている目的がそのプロジェクトにつながっていなければ、
好きな人と同じプロジェクトに参加することもできない。




永い春が実りの時期を迎えることなく終わりへと向かうのは、
時としてしかたのないことかもしれない。
人にはそれぞれちがう事情があるし、
状況も環境も感情も、なにもかもが一つとして同じではない。
それでも、人がヒトとつながっていたい、いきたいと思うことには、
いつだって同じ根拠や想いが宿っているからだと思うのは、
わたしがまだまだ未熟だからだろうか。
人がヒトを欲すること、というのは、
実は意外と純粋で単純なものから生まれていると信じるのは、
わたしがまだサンタクロースを信じている子どもと同じだからだろうか。
そうではない、と、誰かに身を以て証明してほしいし、
いつか自分が証明になれればいいと思う。