春に知る

ひと雨ごとに春に近付いて
風が 空気が 太陽が
まるみと 埃っぽさと ちょっぴりの乱暴さを
にじませる分量が増してきてる。
薄紙を剥ぐように
舌の上でキャンディが小さくなるように。


去年の今ころ
父が目覚めてから、
すでに一年が経ちました。
目覚めない可能性 とか 目覚めても意識がなかったら とか
もっと溯って、
朝イチでは間に合わなかったら とか
そういったもろもろに震わせてから、はや一年です。
時折声をかけていただく方にお伝えするとおり、
母の献身の甲斐あり、またみなさまのおかげで
順調に生き直しているようです。


偏屈 かつ頑強 かつ面倒くさかった性格も、
太陽にコートを脱がされた旅人のように徐々に、
柔和に 多少前向きに よい意味で諦められるように
なってきたようです。
ひとが変わっていくことに
はやすぎることも おそすぎることもないという
模範例のような好例である気がします。
右半身の麻痺と 言語機能に障害が残っていますが、
それ以外の身体機能は至って健常にもどり、
あたまで思った言葉と
まったくちがう言葉が、
口から飛び出してきて
自分でも苦笑いしてしまったり、
麻痺とはいえ
各末端神経は微かに生きているので
「リハビリ次第でかなり以前に近いところまでいけますよ!」
という療法士さんの大きな期待に
渋々ながら応えられるようやっているみたいです。


なにより、
よく 笑うようになりました。
ひとは深刻な顔をしたがるものですが、
本当にどうしよもない時ほど
ちっとも思うように行かない時ほど
自分自身の笑いにすら救われるのだ と
いまさらながら理解しました。
つらいから わらえる → わらえるから 力がぬける
→ ぬけるから いれられる → 新しくいれられるから ふんばれる
こんな単純明快なことが
大切で身近なことを知りました。


新しい春がくるから、
いろいろ想います。
でも考えたり想ったりするより、
身体の声を 素直に聞いて
受け入れ 進むことが
大切になってくる気がします。
父の生まれ直しを見て
呆れて笑いながら
こっそり我が身を省みるような
やな娘なのです。
でも ホントによかった と、
よくがんばった と
初めて自発的に
ちょっと尊敬しているのです。
やな娘ながらに シニカルに
春に知り、その訪れを喜んでいます。