遅れてきた冬将軍

どうやら今年は極寒の年末年始になるんですって。冬将軍はようやくやってきた、って言われるくらい遅刻したんですって。でもまぁぶじいらしたことにはちゃんと触れておかなくてはね。
個人的には今年は秋が長めでお洋服の愉しみ甲斐があるなぁ、と喜んでいたのだけれど。そろそろきちんと冬支度を進めなくてはね。それにしても私のクローゼットに並ぶ冬の大物は、きちんとした系ばっかりなのだ。ここ2、3年毎年思ってる気がするけど、もう少しカジュアルなブルゾンとか欲しいかも。でもなーいまさらだよなー…とか。

十年くらい前から、感情に振り回されるのを拒むことを止めて、五年くらい前からは、その大幅に揺れ動く感情を周囲に隠すこともやめたのだけれど、そのことを少し振り返ってみようと思った。昔ながらの連れに、一昨年くらいに言われたには、「過去のthoraは完全武装しているみたいだった」と。いま再考してみれば、それは何事にも感情を揺さぶられない自分のことも指していたんではないかと思う。そのときは確かちがう解釈と説明で話が進んでいったけど(その話はココ)。そしてさらにいま思うに、感情が揺さぶられないのは、強いて揺れないようにしていたのではなくて、もともと揺れにくかったことを思い出した。例えば、小学校でみんなが泣くような映画を観ても泣けない、とか。中学でみんながはまっている流行の遊び(それがなんだったのかさえ思い出せない)に乗れない、とか。だって面白くないんだもーん、とか思っていた。もっと言えば、父親が倒れたときに、娘として悲しむべきなことは理性ではわかるのだけど、やっぱり悲しくはならなくてとりあえず睡眠が摂れてしまうこととか。娘としては悲しくなくても、父の気持ちになってみるともちろん痛かったけど、意識がないということは痛みも感じずに済むからむしろ救われていると思ってしまったんだよね。
冷たい、というか、感情が醒めているんだろうな、と子どもの頃からなんとなく思っていたけども、それを無理矢理ぬくもりを作ろうとしてきたこととか、ふと思い出した。基本的に人が好きだから、周りの大切な人が喜ぶような振る舞いを、おそらく無意識に心掛けていて、でもそれは時として自分のほとんど揺れてもいない感情を、まるで大きく揺れているかのように、大袈裟に表することになっている気がする。そしてそれが嘘だと知っている分醒めた自分とは余計に温度差が拡がっていく。
それは是でも非でもなくて、ただそれが自分らしい在り方なのだと思っているから流れに逆らってまでそれを変えようとか覆そうとかは、夢にも思っていないけれど。ただ思い出した。そういう忘れてしまっていたちっぽけだけど大切なことたちを。もしかしたらいまはそんなシーズンなのかもしれないな、と思ったりする。