見せたくない

誰かに、心底見せたいと思うものや風景が、わたしにはあるだろうか?



誰でも構わない「だれか」ではなく、特定の「誰か」。
多分そこには、ある程度以上の特別な感情も伴ってくるし、
同時に、そのものなり風景なりの対象を見せることというより、
その誰かと見た事象そのものや、見せた反応が重要になってくる。


時間を共有することと同等の喜び。
切り取った空間を共有する喜び。




だれかに見てほしい風景はあっても、
誰かに見せたい風景なんて、ないかもしれない。
誰かと共有したい切り取られた空間なんて、ないかもしれない。


それはつまり、わたしが過去に重きを置いて生きていないってことなんじゃないかと
ふと思ったりしたわけですよ。


過去に誰かとどこかで見た風景やものなんて
今や未来には切望するほどのものじゃない。
どのみちもう一度、今の誰かと見たところで、
見せたかったものとは異なっているはずだから。


なんてね。
意地悪に思ったりしたのだよ。