たとえば、
「死にたい」とか「死にそう」とか、
日々、私たちは意外に簡単に口にする。


だけど、本心からそんなことを願うわけではなくて、
いや、たとえどれだけ本心からそう願おうとも、
そんなことを軽々しく口にしてはいけないのだ、
と、突然、とても重々しく、真摯に、気付かされることがある。



時々、セネカハイデッガー井伏鱒二の“死”に関する言葉を反復する。
口の中で、心の中で。
そうすることで、ちょっと立ち止まって、
生きていること、死ぬということ、
これまでの人生について、これからの人生との向き合い方について、
ちょっと、少しじっくり、考えてみる。
そして感謝する。
自分が生きていることに。
あの人たちやあの子たちが生きていることに。
同時に、自分がいつか死ぬことに。

既に死んでしまった人が、生きている時に、
死について考察した言葉を、繰り返す。つぶやく。



人の死にぶつからないと、死について(=生きていることについて)
真っ向から向き合って考えることがない、なんて、
ひどいことだと思っていた。
でも、実際自分がそうなっている現実に気付いて、背筋が寒くなった。


誰かの死によってしか、
心が痛くなってからしか、
目を向けられないような状態だから、
今のわたしはこんななんだ。
何に対しても全力の情熱が持てず、
思いをもて余し、自分を持て余し、
溜め込んだものに毒される。



今はただ只管、冥福を祈ろう。
神様、仏様、キリスト様、マリア様。
誰でもいいから、あの人が次のアドベンチャーでも笑っていられるようにしてください。
そのことによって悲しむ人たちに、一日も早く心の安らぎが訪れるようにしてください。
大切なことを忘れていた私を赦してください。


死ぬことは怖くない。
でも、死を忘れていた期間だけ、死から受ける波紋は大きくなる。
常に自分が後悔しないように生きていたい。