ここのところ、胸焼けしてるみたいな人に、やけに会う。
みんな何かに食傷気味みたいだ。
ある人は仕事に、ある人は失った恋に、ある人は愛する人に。
他にも「友達」という名の人間関係に対してだったり、
二進も三進もいかない状況とそのど真ん中にいる自分に対してだったりする。


会う人会う人、思わず胃薬を勧めたくなるような感じなのだけど、
結局、森羅万象物事は必ず変化し続けていくということを、
リアルに信じ切れていなかったり、常に実感として気づけていなかったりするから、
こうしてみんな苦しそうなのかなと思った。
(なんかものすごく他人行儀で申し訳ないけど。
恐縮ながら、私、今、フラットなもので。いわゆる平らか。ただ低めにフラット。
だからすごく俯瞰的に傍観しちゃってます。)


状況に対して食傷気味で、憔悴し切ってる印象を受ける(人が多い)んだけど、
それは、変化についていけていないから、暗くて苦しいんだよね、きっと。
または、本心では受け入れたくないから、変化していることを認めたくなくて、
さらに、その変化による未来を見たくないから、苦しそうなんだね。


でも、その原因について、ちょっと考えてみた。
なぜ、みんなそこで立ち止まるのか、進めなかったり進むことを拒んだりするのか。
悩むことはさんざん繰り返して、それを避けたりうまく対処する方法を、
賢く身に付け、さまざまな状況に善処してきたような人たちであるはずなのに。
はたから見てもつらいほど、胸焼けで苦しくなっちゃってるのに、なぜ。

  • 今までに経験したことないから。
  • これまでより問題の難易度が上がっているから。
  • 大人になったから。


これは言い訳くさいな。
きっとちがう。

  • 変化を拒めないから。
  • 一つのことに対して一定のテンションを保てないから。
  • 手に入れるのが怖いから。
  • 手に入れたものを失う(日がくる)ことが怖いから。
  • 失敗したことがあるから。
  • デッドラインがある(と思い込んでいる)から。
  • 自分や他人を信じることに疲れてしまったから。


これ、かなー。
所謂「現代病」の一種なのかもしれないね。


“信じる”とか“思い込む”ことが、意外と大切だ、って
ちゃんともう私たちは知っているんだけど、
それを、物心つかないうちから体感して育ってきたわけじゃない人なんだよね。
自然と体感して手に入れて、心で知ってて生きてきた人たちは、
きっともっと強くて、疲れたり止めたりしないんだと思うんだ。
でもむしろ、どこかの位置までは、
“信じることとか思い込むことなんかで、欲しかったものが手に入るわけない。
むしろ、夢とか希望とかそんなうさんくさいもの信じられませんよ。
まじめに努力したりとことん追求することで、ようやく手が届くようになったりするわけでしょ。
それでも持って生まれた運とかいろんなしがらみとか、
欲しいものを手に入れるためには、いろいろなものが複雑に関係してくるんだよ。
どれだけ欲しいって言ったって、絶対手に入らないものだってある。
キレイゴトなんてどうでもいいよ。”
なんて、斜に構えながらもまじめにひねくれた部分を持って育ってきてしまった人には、
今の状況は少なからず自分を曲げて存在しているわけだから、
なんかひずみが生まれて疲れちゃって、進んでた足が止まってしまうことだって
容易にありうることなんだよね。きっと。


そういうときってどうやって癒せばいいんだろう。
癒しって言葉はやっぱりどこか苦手だけど、
今はそれが必要な人が多すぎる。
疲れをとらなくては。エネルギーを補填しなくては。
光を見つめすぎて疲れてしまったというのなら、
闇の安心感を探して近くに置かなければ。


私がいますぐできることってなんなんだろう。
やっぱり近くにいることだけなのかな。
私が同じように感じる時はどうするんだろう。
やっぱり誰かに頼ることだけなのかな。