オマージュと光

わたしはあの日が過ぎ去って以来
だれかのことをあんなにひたすらに大切にしたことがあっただろうか。

一方通行でも報われなくても届かなくてもいいから
ただひたすらにすきですきで大切でいとしくてたまらなくて
輪の中でわたしが一番でなんてなくて全然いいから
たまにその時間を少し分けてくれて話をしてくれて
そばにいさせてくれて笑いあってまたねと別れる
それだけで満たされてうれしくて
そこに存在していてくれるだけで神様に感謝したくなってもちろんたくさんして
すきですきでしかたがなくてこれはきっと恋なのかもしれないくらいに思って
それはそれで困るんだけどでもまあ勝手に大切にしてるだけだからいっかってスルーして
それはきっとその頃は知らなかったアガペだったんだと思うんだけど
だれかを心の深いとこから大切にすることで自分があんなに満たされていたなんて…!


あの時間はどこへ行っちゃったんだろう。
あんな瞬間はいつのまにかき消えちゃったんだろう。



いまや両手を大きく拡げて“ちょうだい”“ちょうだい”ってだだっこの子どもみたいにただ欲しがっているだけなんじゃないの


“わたしはあげてるのにあなたはくれない”なんて
確かにそんなことも言ってないけど
本当にわたしは何かをあげられているのかな。
近い過去のいつかだれかにたくさんあげていたんだっけな。
傷つくのがこわいとか痛いのがいやだとかかっこ悪いのは恥ずかしいとか
あれやこれやと理由をつけて本当は
抱え込んだもの何一つとして離そうとすらしてなかったんじゃないだろうか。
そしてその抱え込んでいたかつて大切だったものは、腐っちゃった。
気がつくと元の形を喪ってちっちゃくちっちゃくなっちゃった。



ひとりやふたりはすきにくらいはなったかもしれないけど
それは‘好ましい’という感情をもっただけで
そこで少しでも不穏そうな空気を感じるやいなや
しっぽを巻いて逃げ出してきちゃったんだよね。
“なんにもいらないからそばにいて”なんてだれかの詞を借りたキレイゴトで
ほんとは“足りない”“もっともっと”って繰り返すばっかりだったような気がする。
見返りとか反応とか相手から生まれるものじゃなくて
ただただ自分の中から生まれた気持ちだけで
純粋に満たされたと思えるような強くてしなやかな思いを抱いたりなんて
やっぱりあれからずっとしていない。



ずっと“持ってないからほしい”“手が届かないからほしい”と思っていたけど
もしかしたらそれは自分の中からしか生まれてこないのかもしれない。



冬の入り口のニューヨークは絵に描いたように映画で見たことあるまんまで
ほんとはないはずの既視感すらちょっと感じてしまった。
頭を冷やすどころか加熱されて帰ってきたところを
成田の寒さで一気に冷やされて孤独と淋しさが見事に大爆発だったけど
今のわたしにはやさしく迎えてくれる場所があるんだと気付けてよかった。



そしてこうして新たな鱗が瞳からはがれ落ちて次はどこへ行くんだろう。
少しでもマシな自分になれるといい。
ようやく見つかった満ち足りるためのちっちゃな手掛かりを
もう少しの間だけでも追っかけてみようと思うんだ。
しばらくは英語の夢と現実にうなされながら。