F&Zと再見した時間の断片

とどのつまり、あえてはっきりさせておくとするならわたしは、
道行く誰もがはっと振り返るような第一級の美貌、
なんてものはもってないし、
世間の人が必ず心からの素直な称讃か嫉妬に基づく憤慨のいずれかを抱くような叡智、 なんてのも、
くそくらえな舞台を一見の価値あるものに引き上げ観客を虜にしてしまう天賦の才能、
だって、当然ながらもってない。
4人の小煩くも愛すべき兄姉もいなければ、
そのうち2人を既に今の段階で喪っているという経験もない。


でも、だからといってわたしが、

(この、渇望の先の部分が気障ったら如く引き延ばされて垂涎することにもそろそろ飽きるんでないか、というところまで我慢して待たされ続けた上で、ようやく訪れるその「判決」を慌てて急ブレーキをかけながらでも全身全霊で噛み締めて味わう、この物語の中)

ここに棲む彼らに、どこにも持って行き場のない強いシンパシーを感じてしまっても、
それをはなから否定する理由にはならない。


シンパシーなんてなまぬるいものじゃない。
むしろ、それは物理的な意味での一体感にさえ近くて、
例えば、よしもとばなな氏とか鷺沢萠氏の著作に触れるたびに感じるような、
どこかで地を這うような羨望を含んだ共感とは、程遠い距離がある。



年の瀬近い日に歳をまたひとつ重ねたけれども、
ひとつずつ確実に重ねるごとに、
昔は手の中にあったような気がする、愛おしくて曖昧だけど確かなものから
徐々に確実にずれていってるような気がしている。
別の言葉で言えば、「目的を忘れていく」とか「大人になっていく」
と、言い換えられるのかもしれないけど。
それは、精神医学でいわれる「ピーターパン・シンドローム」とは本当の意味ではちがっていて、
(ちがっていることを承知でわたしは反語的によくそうつぶやくけれど)
人間という生物として、本来ならば、歳云々に関わることなく、
成長過程の一部として、研ぎ澄まされていくべきものなのに、退化しているように感じてしまう、
世の中に埋もれて押し流されて均されていってしまう、
そのことに対して、危ぶんでいるんだと思う。


その警鐘のようなものを受け取るたび、
(それは実は自分自身の中にある鐘を自分自身の手で鳴らしているに過ぎないのだろうけれど)
焦ってアワアワしながらFとZのいるところまですっ飛んで行く。
私が、それをいつどこで危ぶんでいようが、そしていまいが、
彼らは常に同じ場所で同じ数日間だけを永遠にループし続けているのだけれど。


でも、いつもそんな調子で、
最後の「判決」に早く辿り着きたい一心でスピードを速めてしまうから、
斜に構えたり飛ばしたりしてしまう箇所もあった。
(でもその最後だけ味わっても結局だめで、そこまでの過程がなければ意味がないし。)

だから今回は、ちょっと時間をかけて大切に見直してみた。
(せっかちなわたしにしてはかなり珍しく)時間をかけて彼らの一挙手一投足とその描写を細かに追っていくと、
微部細部にまで施された愛情にも近いような神の視線がそこにはあった。


バショウがいたり、葉巻がいたり、不細工なネコがいたり、
動揺の青さを含まない真っ白な顔がいたり、キモノがいたり、 モーゼがいたり、
なんだか世界を形作るものが、ありのままの姿で、
そこにほんの少しの愛しさをにじませた視点で存在していた。
それは、まるでほんものの世界のようだ。


きっとまた、暫く時間を置いた後にも、
気が狂ったようにここを求める日がくるだろうと思う。
以前は気づかなくて今回気づいた点というのは、
内容の面においても、上でほんの少し触れた以上にあるのだけど、
(カバーの面でいけば、知らないサインが中とびらにあることに日比谷線の中で気づいた。)
それは、また次の機会に読み直した時に、温かくも少し冷静な目を持って回顧できるだろう。
幾分ぬるくなった湯船の中でそんなことをふつふつと考えた。