2008-08-24

 高校生の時、初めて付き合った人に教えてもらった本を、今は大切に持っている。実は当時は全然良さがわからなくて、なんて後ろ向きな作品が好きな人なんだろうって、ちょっと失望したりしていた。当時の自分の拙さというか青さを、すごく今さら思い知る。表紙を開くたび、ページを繰るたび、ほんの少し今でも胸が痛む。わかってあげられなくてごめんね。未熟でごめんね。なんて、今の自分をかいかぶっているようだけどそう思う。全然及ばないことはよく判っているけど、あの頃の彼にとっての私は「N・P」の庄司さんにとっての風美と、ほんのちょっとだけ似ていたんじゃないか、なんてこっそり自負してみたりする。あんなに大人で果敢なげで素敵な感じじゃないかもしれないけど。あの頃にこんな思いや真実を、もう少しでもかじって知っていたら、もう少し真っ当でマシな現在があったんじゃないか、なんてちらりと過って後悔しそうにもなるけど、多分、今知っているならそれでいいんだと思う。それがいいんだと思う。
 大好きな本や大好きな音楽を、ただいつまでも額に入れて中心に置いておけたらいいのに、とよく思う。実は好きなものはいつだって変わらなくて、移り気な自分だと思っていたけど、最近では好きなものが歴史を繰るごとに更新されることが少なくなってきている。好きな曲をヘッドフォンからただ只管流し続け、その世界の中にどっぷりはまったまま、おなじく昔から好きな本を繰り続ける。また新しい発見があるからというより、その世界の中では、もう新たに自分を傷つけることがないからなんだ、と最近気づいた。一旦傷ついた傷つけられたものには、もうその時以上の衝撃を持って傷つけられることなんて殆どなくて、あの時より柔らかくなった痛みを甘んじて受け止めるだけ、甘ったるく再認識するだけで済むから。その中毒にはまっているから、何時まで経っても足踏み常態で前へと進めないのかもしれない。何処まで行っても同じところをくるくると際限なく回っているように感じるのかもしれない。
 世界は実は真理に満ち溢れていて、それに気づくことは想像しているより容易い。でも結局それより容易かったことは、それを拒絶し続けていくことだったんだと思う。どんなに歪になったとしても、気づかなければそのイビツささえ見なくて済む、とばかりに、知らないふり見ないふりをし続けて進んでいくことが一番簡単で楽だ。でも、それに本当に気づいている部分は(時にその部分は良心であったり自意識だったり倫理観であったりするんだけども)、ずっと泣き続けている。幽かな大声で「気づいて」と主張し続けている。それをも見ないふりして進むには、大人になりすぎてしまったと最近よく思う。そう、一言で言えば、大人になりすぎてしまったのだ。見ないふりをして知らないふりをしても赦されていたあの日々、その中ずっと守られていたかった。その、もっと若く青い時点で留まっていたかったし、その頃はそうするつもりだったけど、そんなことは時計の針が進み続けて止まることのない人間には、わかっていたけど不可能なことで、それを認めて受け入れて飲み下してやってきたつもりでさえいた。でも全然そんなことなくて、認めてすらいなくて、うまくやっているようなつもりの裸の王様だったと気づく。
 でも今は、前に進みたいと思う。みんなの世界を変えたいなんて大仰なことは私には言えやしないけど(・・・彼は言っていたけれど)、せめて、少なくとも、まずは自分の世界から変えたいと思う。ただ前向きに百点満点の人生なんて、私にあるわけはないしましてやそんなもの望んでもいないけど、生まれ直すくらいの気概をもった心づもりで、ぐらぐらしながら低空飛行ながらも、もう一度見つめ直したい。言葉にするとあまりに陳腐で気絶してしまいそうだけど、・・・生きる意味とか死に向かうこととか、生まれてきた理由とか人を愛する根拠とか自分が自分であることの根本とか、そういうことを忘れては生きていけない。それが私にとって唯一のアイデンティティだし、考えることを否定することをやめた日から、そっち側を歩くことを決めたのだと思うから。それがどれだけ無意味で時間の浪費だとしても、それ以外に私を支えてくれるものはない。どんな不毛な時代にも、ただ近くにいて眼を開かせてくれたのはそれだけだったのだから。


 そして、最後に、明日誕生日を迎える大切な友だちへ。
誕生日おめでとう。そして、ありがとう。
あなたがこの世界にいてくれて本当によかった。手の届かないところに行っても、その存在は常に近くにいると思える。あなたの言葉にどれだけ救われたことか。他という存在を意識してこれほど感謝したことはなかったかもしれない。言葉にすると嘘くさい上に照れくさいけど、あなたには敢えて言葉にすべきだと思う。世界のちがう私たちの共通言語こそ「言葉」だから。
次に会える日を、狂いそうなほど心待ちにしています。