Repeat After Me

何度も何度も
自分に繰り返し
呟いて言い聞かす


同じ言葉群を
おんなじ調子で
いつものところで
転がって詰まっても


真暗な階段を
際限さえもなく
堕ちていきそうな
ぎりぎりの弱い心を
保つことができるよう


強くなりたいと思っていたあの日の日記を読み返すと、ばかみたいだけど過去の自分が青くて愛おしい。昔の自分は、自分自身というより血のつながった他人のようだ。思考に同調することはできるけど、進行形のシンパシーはなくて、そんな考え方ができるんだ!と発見した気になれるけど、忘れることが不可抗力なくらいそぐわないものだと思えるから。優しくなりたいと願った夜の日記には、愛する人に報いることのできないしんどさが今も息づいている。優しさの意味もわからないのに、がむしゃらにそれさえ手に入れれば万事うまくいくと信じていた。自分のこととしての優しさの意味は今もわからないけど、ひとの優しさにはあの頃より少し響けるようになったと思う。もっと単純にシンプルにいたいと宣言した日記には、自分に見合うものを見つけられなくて、苦しげにもがく自分がいた。考えすぎることを自他ともに受け入れたメールには、ひとつ荷物を放り投げて自由になった瞬間があった。


私の基点になってるみたいな小説があって、当然芯からそれに心酔していて、そんなのわかっていたけど、最近自分のある時点に向けてもう一度人生(なんていうと大袈裟だけど)の軌跡をなぞり直す、みたいな作業に無意識のうちに没頭していて、その間に気付いた。わたしの原点てやっぱりココで、究極の願いは望みは、この物語を生きたいっていうことかもしれない、とかぎりなく確信に近い結論に行き着いた。でもそんなの無理だって、意地悪で冷静な俯瞰の私はよく知ってるから、それに近いラインをわざと歩いたり、その一小節をなぞってみたりするんだ、きっと。そうやって何度も何度でもおんなじことを繰り返すことは、決して無駄なんかじゃなくて、ループのうちに漸く見えてくることもある。それを経験から知っているから、やっぱりやめられないんだと思う。過去にしがみつくんじゃなく、回転ループの中で、未来へのトビラを探しているだけなのだ。