渋谷のラッピングバス

新潮文庫の60周年記念キャンペーン。
…でぴんとくる人は、
駅東口利用者かマツケン好き、
なんじゃないかと思う。


で、キャッチフレーズ。
…いいよね。なんともたまらない。そして考えた。
そっからいろいろ連想したなり。

幸せなわたしたちは、たやすく「絶望」なんてした気になっちゃいけなくて、
本当の底辺なんて、殆どの人が知ることすらなく一生を終えていく、
だから簡単に絶望したとかいうな!

みたいなことを刷り込まれて
わたしは一点の疑問も持たず
無意識のうちにそれを信じてきたけど、
ほんとはちがうよね。


いや、言葉自体には真理が含まれているんだけど、
疑いもせず、そーなんだぁと納得していることが、ちがうというか
そんなふうに納得すべきベクトルの話じゃないというか。


普通に生きてても
希望とか望みが信じられなくなることなんてざらにあるし、
単品で考えれば結構たやすく失ったりもする(失望)し、
もっといえばそれが完全になくなって絶たれた(絶望)と
感じることだって結構しばしばある。
元を正せば、感情によく似た抽象的な概念を
他人のそれと比較すること自体が
間違っているというか不可能だというのに。
確かに、
人生全体に対して絶望感を覚えるほど、濃ゆい人生歩いてんの?
と聞かれたら自信はないし、
そんな大きな絶望を
リアルに感じるほどの事に
出会ってはない気がするけど、
希望が絶たれることはちっさく意外とあると思った。
むしろそんな絶望ならウェルカミンだとさえ。
後ろ向きな意味でなく、
それも味わわないで生きてるなんて思えないし。


…とはいってみたものの、
やっぱつらく苦しいのはしんどいし。はは。
次のちがう希望につながる絶望ならよいよね。
それは絶望とはいわないのか。


でも昨夜の雷で電車止まってて、
タクシー全然拾えなくて、
バスもこなくて、
ぴかぴかゴロゴロゆってる土砂降りの中、
待ってる歩道でビショビショになったのには
途方に暮れたよー。希望なかったもんね。
おかげで、三車線一番奥に空車ランプ見つけて
駆け寄った時の安心感はものすごかったけど。



本職の校了前だっていうのに単発の取材受けて、久々おうち取材した。ちょっと駅から歩くのがだるくって、家の近くまで運んでくれちゃうバスに乗ろうと待ってる渋谷駅東口で。クラシカルなお洋服が似合うマツケンに見つめられて思うこと。