理想と現実の間で

 ゆめをみて、その中でものすっごいがんばって必死になってて、急に(アラームとかチャイムとかで)ぴくって目覚めると、寝起きなのにビックリするくらい疲れちゃってたりする。ていうのは一昨日の朝。
 ゆめの残像ってそのポイント(起き抜けの夢うつつ境目近く)でちゃんと復習しとかないと、すっかり忘れちゃって今日みたいに、もう全然思い出せない。だけど、どんな感触のゆめだったか、っていうのは、頭の中というか心の中?記憶にちゃんと刻まれていて、強い印象をもって主張している。
 昨日のは、白くパーッと光が差して明るく、逃げるだか追うみたいに走っている疾走感がほとんどすべてで、でも希望みたいにキラキラしたものに向かっているから、爽快感とか開放感があってワクワクしてて、ちょうどその、「ゴールに着いた!さて何が手に入るんだっけ?」みたいなポイントで目が覚めた。だから、疲労感と達成感はあるんだけど、まだ「手に入れた〜!」っていう満足感までたどり着く前だった。だからベッドの上で、「あれ?」って。「…やだ、続きは?」みたいな。
 最近よくゆめをみる。昔は全然見なかったのに。思い出したいわけでも、覚えておきたいわけでも大してないけど、忘れてしまってることに気付くと、ちょっとしゅんとする。何か大切なものを取り落としたような、ずっと昔の仲良しだった友だちに関する記憶をなくしてしまったような。




 詳細は省くけど、今やってる企画について。「こども」ってくくりだと思って動いてたらちょいちがうみたい。何かの雑誌で同僚が読んだという「ママくさい、じゃなくて、ママらしい!」っていう企画みたいな切り口らしい。どうちがうんだって思うけど、要は「こどもがいても自分でいたい!という自分大好きなママさん目線がトレンドでしょ?」って内容みたい。
「こどもは従属物じゃないのにね」って思ってしまうわたしは古いんかね。自分でいることはとてもすてきなことだし、わたしだってきっと「だんなさんのためには自分なんて放り投げちゃうもんね!」なんてところまで思えないんだろうけど、でも、こどもは、自分のこどもは、自分より全然大切なものだと思える気がするんだけどね。
 だって存在自体が未来なんだもん。おかあさんやおとうさんやおばあちゃんがいろいろこどもに譲ってくれたのは、未来を担い創り切り拓くという使命のためだと、こどものわたしは思っていたよ。これはわたしに与えられるんではなく、わたしの可能性に対してかけられる前向きな負荷なんだ、と。
 タイでは、公共の乗り物の中で、おじいちゃんおばあちゃんが幼いこどもに席を譲るけど、あれも未来に対する敬愛なんじゃないかな。個としての人間の行動なんて、多分自分も今までそうしてもらってきたから、でも所詮そのしてくれた人に同じように返すことはできないから、せめて自分より下の世代に同じようにしてあげることしかできない、って考えて行動してるにすぎないかもしれないけど、それでもその行動の根本には、いつだって人間に対する大きな深い愛情が流れてるからなんだって信じていたいよね。
 最近は(自分も含めて)みんな着目点とか視点が自分に向かっていて、それは大切なことなんだと思うけど、自分自身に関していえば、それはちょっと危険かもと思う。自分自身はもちろん大切にしなければいけない存在だけど、そこで完結しちゃうんではなく、何か他の存在に還元していけなければ本当には意味を為さない気がするから。じゃあ何に向かうかといえば、身の回りの愛する(すべき)存在なんだと思うけど、それだけではないのかもしれないね。でも、そことの折り合いをつけられない限り、前に進めないというか、目標を達成感できてない気がするんだよね。