道端の挨拶を倣う。

 秋の好ましい陽気も昨日までらしい。これから今日明日とくずれる、とA予報士が言ってた。日本にしてはやや乾燥気味の、この気候は、相当な称賛をもって謳歌させてもらっているのだけども。
 人が発しなくてはいけない話やことなんて、実はそんなにたくさんありはしないわけで。生産することに激しい欲求を感じる人は、消費することや破壊することに対しても同様なのだと思う。一線ちがえば、とか、角度が一度ずれれば、とかそういう微妙な一因で、発露の仕方がちがうだけで。
 今は、昨日までとびとびで読んでた本の影響を少なからず受けている状態だから、なんというか、自分の考えじゃない。入ってきたばかりの新しい考えに引っ張られている。色褪せてきた塀に、新しくペンキが塗られたばかりの状態と似てる。ただこれも時間が経てばもっと慣れて、この上塗りされたばかりの考えや情報の上に立って考えることができるようになる。そこから先だけが、自分のアナウンスになれる。
 また土曜からは行楽日和になるらしい。でも、一雨ごとに秋は深まっていくものだから、この雨のあとには、そろそろトレンチが本格的に役立つようになるかもしれない。去年はブーツを買ったから、今年はコートを買いたい。黒以外もいいかも。冬に身に着けるものの準備も始めなくては。いきなり寒くなると困るから。
 仕事をすることは、本当はいつも小さな戦いの連続なのだと思う。別に、人生かけて守りたい部分をさらけ出すことが必要なほど、大仰な仕事なんてしてないけど、それでも譲れない部分とか持っていきたい方向性とか落としどころみたいなものを自分なりに模索して、そういうふうに仕事をしているわけで。ぶつかった時に、へにょっと負けるしかない部分はくやしい。こちらにまだ弱いところとか抜け落ちてるところがあるからこその結果なのだろうけど。貫くことが常に正しいなんて思ってないけど、ひとつに対して返ってくるだろうものの予想ができてない、つまり想像力が欠けていることが、何よりくやしいのだと思う。
 やさしい人は、なんでやさしくなれるのだろう。面倒を避けたいとか困ってる人をほうっておけないとか、「情けは人の為ならず」とか、いろいろ前付け後付けの根拠を探すことはできるけど、なんとなくそれだけじゃない気がする。もちろん人の行動理由なんて単一でなくて、もろもろの要因が複雑に絡まりあって表象化してきているにちがいないんだけど。やさしさは沼のように簡単には底が見えなくて不安になる。ずぶずぶと甘えてはいけないし、どこに底(リミット)があるかわからないし、比べることのできないものだから、実践するのも有り難く受けるのも本当に難しいと思う。