人間を学ぶ

こないだ元同期とゴハンした。
今年六月に結婚したので、
同じ編集部所属だった頃みたいには
飲んでいられないか…と思いきや、
別れてあるって帰ったら3時すぎだった。
ははは、そんなもんよね、と思った。


今はどちらもその時の会社にはいないけど、
わたしは彼女から、彼女と一緒にいた時間から、
たくさん大事なことを学んだと思ってる。
そういうことを思い出した。
初心に帰るなんて言ったら大袈裟だけど、
むりやり一言でまとめちゃえば、
あの頃よりはイジワルな自己防壁を作らず笑えるようになった
というか。


すごーく子どもだったのね。
好きで、嫉妬して、懐かれて(と思ってて)、
空回りして、凹んで、でもがんばって、
みたいな繰り返しの部分に、
正直疲れてたとこもあった、と思う。
でも、
ちがう場所でちがうものを追ってることが明確になると、
負けん気はあっという間にどっか行っちゃって、
ただ、好きな気持ちだけが残ったんだと思う。
彼女は、良くも悪くも
わたしが持ってないものをたくさん持ってる、
とよく思うので、
そしてそこはヒトとして良い部分だと思ってるので、
見ていて微笑ましいしステキだなと思う。


これはどんな人間関係にもあてはまるのかもしれないけど、
友だちとしている上で、
一致より相違を大切に思えることは
意外にも重要だと、切に感じる。
たかだか自分の一生分くらいの時間だけじゃ、
とてもじゃないけど
世界の全部を体験しきれやしないから
お互いの体験の共有って意味もある。
でも何より、
ずれない一致を求めるあまり不一致を排除するやりかたよりも、
時に微妙に、時に大きく表れる相違を個性として尊重して慈しむ方が、
人生全体をより価値のあるものとして、
好奇心を広げながら楽しめるんじゃないかと思うから。


大学一年の時、全学共通で必修の講義に人間学があって、
その中で唯一といっていい、
ひとつだけ覚えてることがある。
(特に「大人(という言葉に総評されるすべてを含め)」に対して)
排他的で批判的になることは若さの特権だから
今は自由に好きなだけやりなさい、と。
それが、実際自分が大人になった時の
足枷にもなり、誇りや規範にもなるはずだから、と。
そんなふうに説かれたことを覚えている。
中途半端に排他的に厭世的に、
大人と呼ばれる存在すべてに対してシニカルになりがちだったわたしは、
肯定された気がして、内心ほくそ笑んだ。
でも本当は今、
蔑んだ瞳で世の中にうんざりしてたあの頃の自分が、
どんどん脅威になっていく。
理想とちがう自分に、
幻滅した息を吹き掛けようと
すぐそこで待ち構えている。
ような気がする。
そうではないために、
息巻かれたりしないために、
ちっぽけなプライドと頽れそうな自制心を、
必死で捩じ曲げないように
保つわけです。