変わること

ここのところ、ワードとものすごく向き合っている。
Windows標準装備のあいつね。
もちろん今のところそれが本業だから、当たり前なんだけど。
そして、ずっととにかく本を読んでいる。
インプットすることでしか、新しい変化は望めないから。


入れては出して、また入れるという作業を
ずっとじっと繰り返している。
話を聞いてテープに録って、
テープを文字に起こして自分の言葉に置き換える。
文字を追って思想を取り出して、
考えを作ってまた言葉に置き換えて、という作業。
入れて、出して、入れて、練って、出して。
その作業自体は変わらないようでいて、
それに触れた部分が、音もなく変化していく。
そういうのを一歩ひいたところから、
ちょっと俯瞰的に客観的に捉えてみると、
その些細な変化が、ちょっとした角度の変化が、
全体の方向性の劇的な変化の礎になっていくことに気付く。
気付けば止まることなく、
大きな流れは動き続けていることがわかる。


わたしの言葉は、表現力は拙いから、
じょうずに真髄を言い表すことはなかなかできないけど、
そういうことを日々感じてかみ締めている。
確かに手の中に在るものとして、
その感覚を、実体を感じている。


変わらないことを好ましく思いつつ、
変わり続けていたいと自分が思っていることを
知っているし、同時に切望してもいる。
変わることで生まれる
刹那さや切なさ、どきどきやときめきを、
芯から愛していることがわかる。
そういう付随物的なものは、
変化すること自体や、それが生み出すものや意義に較べたら
そんなに思いをかけるほどのものでないと知ってはいても、
それも含めてというか、
むしろメインに押し上げてしまうくらいの勢いで、
そのおまけたちを大切にしている、と思う。


満月を慈しんだり、
桂花の香りにくらっとしたり、
泣きながらびわ種のお酒を飲んだり、
波とか月を代表されるものに
見えないところで操られているジョシだから、
そういうのも含めて楽しんでいる。


だけど、それすら、
いつか変わってしまうのだろう。
ちっちゃくかくしゃくとしたおばあちゃんになって
月や波や花にも心を痛めていた
そんな青い自分を、
遠く愛しく思える日がくるのだろう。