意義のない独白

わたしが何を拠所にしているか、なんて
いつだって誰にとっても、別に
大して興味のあることじゃない、と思うのだけれど、
(と、ここまでの冒頭部分はすでに、
 今の今まで読んでいたI・K氏訳の
Bの語り口調にそっくりだ!)
それでも、それについて一旦明確にしておく必要があると思う。
それは、特定の誰かに向けてというよりむしろ自分自身、
または古いジャズの名曲You Are Nobody Til Somebody Loves Youの

「だれかさん」的な存在に向けて、
とでもいえるかも知れない。


わたしは、友人をはじめとした様々な気の置けない人たちから、
しばしば言葉や言外を通して、
マゾでしょう、と薄く冗談の色を交えながら
いなされるように評されたりするけれども、
果たして本当にそうなのだろうか、
ということを一度検分してみようと思う。
どんな時にどういった行動を取るかというところから始まって、
自分以外の他人との関係性を意識的であれ無意識的であれ、
どういうふうに持っていこうとしているか、
ビジョンを描いているかということを含め、
深くというか表層から深層心理の底のほうまで、掘り下げてみると、
実質的には、Mというより、恐れや甘えに基づいた依存体質(真性なり後天的なものであり
 どちらにせよマゾヒストは依存とはちがうと思う)が、
諸々の根源になっているのではないかと思う。
一つひとつ説明させてもらえば(その余地があるとするならばだが)、
恐れとは、孤独や不理解からくる
strand(つまり立ち往生や座礁感、身動きが取れない状況)に対するものだ。
これについてうだうだ記すことは
ただの自己憐憫の露呈になりそうなので避けるが、
つまりは、一人になること、独りだという事実を認識することに対して、
大きな恐れを抱いているのだと思う。


いっぽう甘えとは、大きな懐の深さを以て
わたしを許容、受け入れてくれる人たちに対するものだ。
家族を含む誰か優しい友人や知人に
つい、すっかりよりかかってしまう。
現在の日本の若者の間にはびこる風潮によれば、
それでも恋人にはよりかかってもいい、というか
恋人にこそよっかかるべきらしいけれども、
そういうことを意味もなく是認する
(そのよりかかり合いこそが恋愛の行く末だというのは
 絶大なる勘違いだと思う)風潮には興味がなく、
むしろ自身の健康な脚で立っていたいと思うからこそ、
生じているよっかかりを甘えだと認識して恥じるわけだし、
そうではない理想的かつ慈愛に満ちた関係性を
望み求めているのだと思う。


しかし言葉にして記すと如実に立ち上がってきてしまうとおり、
悲しいかなその二つは逆方向を示唆する矢印なのだ。
一人でいたくないという観点から人を求めて距離を縮め、
同時によりかかって甘えてしまいたくないと思い、距離を離しておこうとする、
相反する二つの矢印に沿った逡巡を日夜連日繰り返していれば、
パラノイア的異彩感を放つ存在にはなれたとしても、
求めるところの理想的立ち位置にはなかなか近付けそうにはなさそうだ。
この相反する二つを抱えて途方に暮れたことの
結果として依存しているのだ、と言い張ってしまえば、
それはそれで言い訳が立つ、
ような気がしなくもないけれども、
それはちがうと思うし、
それ以上に、そうであることは決して美しくないと思う。


そうなのだ、わたしは何ごとに対しても
センスがよいとかスタイリッシュな意味では到底ない、
まったくちがった意味での美を、
常に求めつづけていたのだと思う。
その時に指す美とは、
簡潔で、光に対してまっすぐで、しなやかで、代え難いもの、
弱さやしたたかさをも内包した、
みずから生きることを選び取る潔さ、そのものなのだと思う。