流れてまとまって またほどけて

 シーズナル(seasonal)な感じに、あたまや心の中でその時期つねに考えたり留めてある、テーマみたいなものがある。それについて、割くのにもっとも適した時間とは、歩いているときだったりするので、そのテーマについて気に懸かっていることがあると、むだに遠回りして帰ったり、まっすぐたどり着いても思考だけはとめどなくずっと、回り進みつづけていたりする。おかげで、家にいてもちっとも雑用が片付かなかったり、おつかいに出ても何を買うんだったかうやむやで帰ってきてしまったり、ときどきする。ものすごく面倒くさいし困るのだけれども、仕方のない気もする。そしてその、とめどなく切れ間なく、ただひそやかに確実に進む思考は、なにかにたどり着くこともあれば、なににもならずまた静かに意識の下の方へ沈んで収まることもある。でもそれは、岸辺に打ち寄せる波や耳元をくすぐる風のように流れて、よくこね上げたパン生地や掃き集められた落ち葉のようにまとまって、砂で作ったお城や口に入れた瞬間の綿菓子のようにほろほろとほどけていく。いつも必ず、その過程をたどる。ただ、それだけ。




ひとはなにかをだれかを踏み台にして成長していく。


たとえば赤ん坊は、おじいちゃんやおばあちゃんを。
または新入社員は、教育係を務める上司を。
なにかやだれかが存在があるからこそ、
そこから物質的や精神的、直接的や間接的な影響を受けて、
ようやく成長という変化ができるようになる、のだと思う。
ひとが変わっていくためには、必要なものがあるということ。


生きていくためには、他の命を
ありがたく享受して取り込んでいかなければならないのと似ている。
取り込むことで、体の中で分解して吸収して、
細胞になって分裂して…というふうに、かたちが変わっていく。
生きていくこと自体が、すでに変わっていくことと重なっている。


つまり、
なにかを享受し、その影響を絶えず受け続けることでひとは変化し、
その変化を絶え間なく続けていくことが、
生きていることに直結もしているし、同時に、
生きることをやめない理由のひとつになっていく。
生きることとは、変わり続けることなんじゃないだろうか。




だけど、ひとは変わることを拒むようになる。
年を重ねるにつれて頑固になったり、
新しいものを拒んだり恐れたりする。
変わること、変化を続けていくには、
意外とずいぶんな体力と気力が要るから。


でもそれだけじゃないような気がする。
ひとが変わることを恐れ拒むのは、
その先に死があるからじゃないだろうか。


それは決して大仰な変化ばかりを指しているんではなくて。
毎日同じような日々を暮らしていても、
昨日はつぼみだった花が開いたこととか、
日の入りが一週間前より五分遅くなったこととか、
毎日同じようで、毎日がちがうものだということを、
認識し続けることと、確実につながっている。
たとえば、
おうちで伏せっているんではなく、
畑で育つ野菜や花を、
冬なのに毎日見に行きたいおばあちゃんは
変化を恐れていない部分なんだと思う。


伸び、成長し、蓄え、老い、死に近付いていく。
それ自体が大きなひとつの変化の波だと考えるなら、
小さな変化の積み重ねが、その大きな波の動きを形作っていくなら、
最初は面白くて無我夢中ではじめた変化も、
歳とともに数を重ねるごとに死へと近付いていく、
そのことに対する脅威へと、
成り代わっていくんじゃないだろうか。


わたしは、変わらずに変わり続けたい。
変わることを恐れない姿勢を、今のまま保ち続けたい。
面白いことを面白がり続けていたいし、
みずから変化に飛び込んで行きたいし、
いつだって変化を柔軟に受け止められるようありたい。
変わっていく自分を、周囲を、すべてを、
笑って表情だけでも余裕で、楽しんでいきたい。

・・・別に08年の漢字にかけるつもりはなかったんだけど、
思い切りど真ん中みたいになってしまってちょっと恥ずかしい。