現代のラプンツェル


都庁前から乗った大江戸線の、機械音がうるさい車内で、シートの端っこに腰掛けて、かき消されて消え入りそうなオアシスを聴いていたら、発作的に泣き出してしまいたいような衝動に襲われて、必死でこらえた。




むかしむかし、作文が苦手だったことを思い出しました。
格好つけて文章を書くような感覚がすることが、
お尻からむず痒くなるようでたまらなくて。


文章とは、作文って、
一体だれにだれが話しかけているものなのだろう、
とふと疑問に思ってしまうと、
途端に恥ずかしくて、誰にも見せられない気がしました。
今でもときどき、ふとした瞬間にその感覚を思い出すと、
思い出し赤面と締め付けるような腹痛に見舞われます。
もしかしたらあれは、
たった一つの純正な自意識だったんじゃないかと思います。




十代半ばの真夏の名古屋、大型書店の片隅で、
同郷の詩人の作品に出会いました。


子供部屋でも異国の地でも学生時代も社会に出ても、
その詩画集を、どこかに連れて移動してきました。
一年以上言葉が目に触れなくても。
ハガキやカレンダーを飾らなくなっても。
こないだ、母が彼の作品を買い求めたそうです。
あの頃、新手の宗教にはまったんじゃないかと、
取り越し苦労な心配をしていた母が。
言葉はいつでもどこでも、
出会える時にしか、出会えないものです。




二番目と三番目に大切なものを捨てればいい、と彼は言いました。
そうすれば、一番目よりもっと大切なものが手に入るから、と。


わたしはいつも、大切なものを見誤ります。
おかげで棄てまちがい、遺しまちがうのです。
なにごとも偶然なんてことはありません。
すべてが、自らの選択、希望、手段に立脚して、
起こるべくして起こっているのです。
直感ではなく、感覚で選び取ることができるよう、
選び取ったものが正しいと、信じることができるよう、
頼りなく震える感覚のアンテナを、見極めたいと思います。
せめて三番目と四番目に大切なものの区別くらいはつくように。




近未来の塔みたいに聳えるビルは、たかが三階からでも、ちっぽけな自分にとって世界は薄い霧に包まれた偉大なもの、という、刹那的で寓話的な幻想を見せてくれた。それで少し謙虚になれた気がしたら、ずっと以前の色んなことを思い出した。そうか、無駄に高くて意匠がないように見えるこのビルにも、囚われのお姫様が夢見るようなきらきらしたものが宿っているんだ、きっと。そう思えた。