うまくいえないことたち


信じることについて。


たとえば。
「あなたは占い(とかそういう類のもの)が好きだよね。」
と、半笑いで言われたり、たまにする。
何人かの占い師に会いに行ったことがある、とか
雑誌の星占いや朝の情報番組の占いを
結構ひんぱんにチェックしてるから。
でも、ホントはそうでもないんだけどな、と
思ってる自分がいたりも、する。
誰かと比べて、とかではなく、
自分の中でのプライオリティの問題として、というか…。
夢中だと思われるのが嫌だから、というわけでもなく、
表出してるほど内面は熱くなってない、
温度差があるというか
少しちぐはぐなとこがある、というか…。
そういう自分を知ってるから、
ときどき、なんだかなぁ〜と思う。
どっちみちうまく伝えられやしないから、
今では否定もせず笑って受け流してしまうけど。


信仰に似たもの。


それは、こないだ少し思い出した、詩人の話と似ている。
高校生の時出会った地元出身の墨画詩人さんは、
キリスト教徒で、もちろん作品にも
教会や天使がさりげなく描かれていた。
高校はカトリックの学校だったから、
もっともっと押し付けがましいイエスやマリアに
日常はあふれてしまっていたから、
そんなにというかむしろ全然、
さりげない天使は許容範囲だったんだけど。
そういうところが、
母の新興宗教信仰説に拍車をかけてしまっていた。
…そんなわけないのに。
そんなにわたしはばかじゃない、と言いたいところで、
当時は確かにそう思っていたけど、
ばかとか賢いとかいう問題以前に、
「友だち」にはまって、「英語」にはまって、
「演劇」にもどっぷり首まで浸かっていた私には、
そんなさらに深そうな新興宗教なぞにはまる隙間なんて
もう余っていなかったというのが正しいと思う。
でも、あの頃、
そんなことを伝えられるすべは持っていなかった。


だから、少し母の前では控えめにしたり、
(女子高生だったから、きゃあきゃあ絶賛していた)
多少気を遣ってみたりしていた。
今だって、私が何かしたわけではなく、
母の心に響いたのは、それを自らが欲していた、というか、
なにかそういうものを受け入れる準備ができていたから、
ただそれだけのことに過ぎなくて、
だから、やっぱり、うまく言えないけれど、
表面と真皮下の温度差は、
あるけど主張しなくてもいいんだな、と思った。
いつか自然と同和する日がくるんだ、と。
「信」は人に言と書くけど、
人に言わなくてもいい(でも伝わるとか)もの・・・
っていう意味なのかしれないと思った。


腕をあげたい本音。


そういえば、フィンランドのSの日記を読んで、
なぜかものすごく共感しました。
最近とみに料理をしっかり身につけたいと思う。
それは、誰かに恋をしたいということなんだ、
とちょっと気づいていたけど、
気づかないふりをしていたことに気づいた。
(言葉遊びみたいだな)


ここ半年くらい(以上)、
またキズだらけになるのが怖くて、
いろいろ遠ざけてこっそり精算してきたけど、
そろそろ新しい関係性を築いていってもいいかもしれない。
まずは、料理からかな。
味も見た目も美味しいモノを作りたい。