ねじれたシスター願望

 古いメールを読み返していたら、今ごろお遍路を終えて次はおとなりさんの大陸を目指しているであろうsからのメールを発見した。不特定多数に対して発信・発露されている彼女を、外側から見ていると、いろいろな意味で心細く感じたり不安をおぼえたりするのだけど、私信のメールを見ると、関係性(や本人そして自分自身)のコアな部分は変わっていないのだ、と安心してしまう。その安堵に対して、少し罪悪感を感じるのは、相手の開かれた弱さに対してホッとしてしまうからだと思う。
 でもこれは、きっと一生続く。だれかの弱さを見たいわけじゃない。だれかに必要とされてる自分を確認したいだけなのだ、しかもわかりやすく重くない形で。隠されたものには気付けず、重いものからはそそくさと逃げ出すくせに、だれかのための自分でありたい、とは、お気楽で傲慢なことだ。
 あぁ、だから聖職者(というかシスター含む)がきらいなんだ、と思い当たる。あの立場こそ、こんな自分の究極の形である気がするから。これは決して、実際そういう方たちが、お気楽だとか傲慢だという意味ではなく、自分に投影した時、虚像のように拡大化されて戻ってくるから(自分がこのまま、だれかに必要とされたいエゴを、盲目的に追求したら、自己愛と顕示欲にまみれた陶酔型シスターになって満足する、ということ)だ。
 そんなことを思いながらも、最近四月だからか、初めましてな方とご一緒させていただく機会が多い不思議を思う。まあなぜかみなさん年長者ばかりなんだが、きっとこれもなにかのきっかけなのだろう。ひととこにとどまることを推奨・希望するわけではないけど、このまま関わる人が増えていったら、確実にどこかは切らなくちゃいけなくなってしまうことがとても怖い。だってどれだけがんばっても、やっぱりキャパには限界がある。


とまあそんなことをほろほろ考えこぼしつつ、今日はひさびさの休日出勤なのであります。