六十五年ぶりの再会

冒頭にエクスキューズから入るのは
美しい文章ではない、と
大人になってからは、
特に気を配ってきたつもりなのだけれど、
やっぱり今回はうまく言葉にできる自信がない。
悲しいのだけれどうれしいような、
淋しいのだけれどこれでよかったのだ、
と思っていて、
間違いなく気持ちはすっきりしているからだと思う。
こういうパブリックな場所で
書くべきことではないかもしれないけれど、
いま、書いておきたいし書こうと思う。


先週土曜深夜、
父方の祖母が旅立った。
九十四歳の大往生だった。
救急車で運ばれて人工呼吸器をつけられなければ、
そのまま自宅で死に水を取られていただろうくらい、
ちゃんと自分の部屋で助けてもらいながら、
死に際までしっかりと生活していた。


私にとって、父方の祖母は、
本当の意味で最初から「おばあちゃん」で、
白髪で腰がまがって、でも矍鑠(かくしゃく)としていて、
ちょっとどこか他人で、でもかぎりなく祖母だった。
言葉ではなく、抱きしめるでもなく、
孫を慈しんでくれていることを肌身で感じさせてくれる人だった。


ひとつ悔やまれるとすれば、
今年のお正月は挨拶に行かなかったこと。
私は今年は元旦から顔面に傷があって、
心配させることを厭って弟を一人で行かせた。
行っておけば、よかった。
顔を見せておけば、よかった。
傷を笑い飛ばして話しておけば、よかった。
でも、それも今となってはしようがないこと。


先週、旅先で危篤の知らせを受けて、
どちらにせよ間に合わない、と言われたけど、
いろいろ押して駆けつけたら、
まだICUで呼吸を続ける祖母に会えた。
進学、就職とこの地にとどまることを選んだ時点で、
死に目に会えないことはどこかで覚悟していたから、
むしろ間に合ってうれしかった。
きっと、待っていてくれたのだと思った。


祖母の兄弟の中で、唯一近くに暮らしていた
八十を越えた祖母の妹である大叔母は、
火葬炉の扉が閉じられるとき、
閉めないで、連れて行かないで、
と小さく呟き顔を覆った。
生涯独身を貫いた大叔母にとって、
祖母は、姉であり親代わりであり、
唯一の頼れる肉親だったのだと思う。


祖母が九人兄弟の下から三番目だったということを、
葬儀の段になって初めて知った。
父が生まれる前に既に祖父が出征していたことも、
酔っぱらった叔父の口から通夜の席で聞いた。
二人の幼い息子を抱えて、実家に戻り、
ずっとひとりで強く生きてきた祖母を想った。


でも何より、
それも含むすべての過去を、
息子や嫁や周囲に関するすべての思いを、
何もかも飲み込んできた人だったのだ、と
初めて知った。
何も告げることなく、
過去も振り返らず、
前を向き、
自分を信じ、
周りに心を配って、
そういう人だったのだ。


すごく淋しいし、
もっと話してみたかった。
でも、きっと、
できなかったし、しなかったと思う。
それが自然で道理だった。
言葉にすれば、触れさえすれば、
伝わるとかわかるとか正しいわけじゃない。
でも、ちゃんと伝わっているし、
だいじょうぶなのだ。


今はただ、
ようやく六十五年の月日を経て、
三十代の祖父に
再会できていることだけを祈る。
ちっちゃなお遍路さんの格好をして、
いつもより少しだけ赤い紅をさして、
ずっと会いたくてたまらなかっただろう人と、
やっと、ともに過ごせていることを。
たくさんのありがとうとともに、
ここから一生懸命に祈るだけだ。