心境の変化

要らないものは「要らない」と言うのが苦手な子どもでした。好意を断る時には「充分です」と言うのだと、わりと小さい時から(自分で子どもながらこの言葉遣いはないよなあと思いながら)徹底してしつけられていたにも関わらず。何と言えばいいのかが問題ではなく、他意も悪意もない綺麗な好意から差し出されるものを、断ることでがっかりされることがとても怖かったのだ。なんでも喜ぶほうが子どもらしいのではないかと、勝手に思い込んでいたし。申し訳なくて断るなんてできなかった。それがガム一つでも。…よっぽど不器用だったのだと、今なら思う。
そういう傾向は今も昔もあまり変わりなくて、無意識にやったことがあまりにも不器用な対応で、あとになって我ながら苦笑する、ということはよくある。でもマシになったと安堵することは、言葉遣いが子どもらしからぬすぎやしないかと心配しなくてもよくなったこと。むしろ三十路を迎えて、子どもっぽすぎる言葉遣いに、思わずひやっとするくらいには大人になったなあと思う。年齢重ねたくらいじゃなかなか簡単に大人とは呼べないとは思うけれど。

暑くて暑くて蕩けそうで身体も悲鳴をあげ始めていたから、ようやく夏の終わりの空気を感じて、清々した心持ちだ。亜熱帯化している東京は、ミンミンゼミもアブラゼミも棲息すべき場所が少ないみたいで、五月蝿いなんて今年は一度も思わなかった。夏の終わりをしみじみと感じさせてくれるはずのツクツクホウシも注意深く耳をすましていないと気づけない。そういう流れ去っていくなかで変わっていってしまって、しかも自分一人の力では抗えない、変えられないようなことに、センチメンタルを感じることは、甘く切なく心地好いけれど、同時に無常に浸るナルシシズムのようで少しばかり偽善的だ。
だけど、aikoの言葉を借りるなら「袖を風が過ぎる」秋の気配を感じることで、熱に浮かされて芯が痺れたようになっていた頭が、スッキリとクリアになって研ぎ澄まされていく感じはとても好きだ。このままどこまでも、澄んでいく空気とともに純度を増して透明になっていけそうな気がする。そんな季節に感じる孤独は、この上なく甘美で完成された贅沢だなあ、と思うのです。