容れ物が喪われたら中身は消える

いつのまにか文月です。
祖父がなくなってもう一年です。こわいような面白いような、ものすごく物知りなような、でもおごったり知ったかぶったりしない、私にとっては不思議な祖父でした。
ようやく、距離を縮められそうな、ちゃんと大人になって話ができそうに思えたら、祖父は逝ってしまいました。もっと近くにいたら、もっと話ができたのだろうか。…いやでもきっと、するりとかわされて、私には到底太刀打ちのできないままだったのでしょう。でももう少し、もうほんの少しだけでいいから、祖父のことを知りたかったなあ、と今さらながら思うのです。
その不在を本当に心から悲しんで悼んでいる母のようには、近い存在として感じることは結局できなかったけれど、その一周忌を欠席することを、熱が出て入院したんだから仕方ないのに、気にしている風だった話せない父の姿には、やっぱり母と父は夫婦なのだなあと、再度実感させられました。それだけでも、その二人の姿をくっきりと浮き彫りにするように、私に感じ入らせただけでも、今回の法事の意味があったように思いました。…法事の場に祖父の気配は感じられなかったけれども。
きっと祖父はもうお墓にも仏壇にもいない。ようやく好きなところへ自由に行けて、持病の心配することもなく、好きなものを好きなだけ食べられるところへ、祖父は行けたのだと信じたい。

会いたい人に会いたいと素直に伝えられないもどかしさは、ばかなことだと心から思いました。ちっぽけなプライドみたいなものや意地や強がりは、いつか死んでしまうことを鑑みたら、どれほど瑣末なことか。愛だの恋だのにうつつを抜かせる幸せは生きているからこそなのに。私は浪費しすぎている。それに気づいているのに、行動を起こせないのは、本当に大馬鹿ものだ。
…だれかに手紙でもかこーかなー。。あの頃みたいに、真摯に真夜中の気狂いみたいな手紙を、もう一度書けるだろうか。