正しさを迷いながら究めていく

美しいもの、楽しいことを愛すのは人間の自然であり、ゼイタクや豪奢を愛し、
成金は俗悪な大邸宅をつくつて大いに成金趣味を発揮するが、
それが万人の本性であつて、毫も軽蔑すべきところはない。
そして人間は、美しいもの、楽しいこと、ゼイタクを愛するやうに、
正しいことをも愛するのである。

人間が正しいもの、正義を愛す、といふことは、
同時にそれが美しいもの楽しいものゼイタクを愛し、
男が美女を愛し、女が美男を愛することなどと並立して存する故に意味があるので、
悪いことをも欲する心と並び存する故に意味があるので、
人間の倫理の根元はこゝにあるのだ、と私は思ふ。

                          ――「デカダン文学論」坂口安吾

私はいつでもそちらに引き寄せられている。きちんと理詰めで説明できるほどの精密性も持ち合わせていないのに、正義に適うかどうかがとても気に掛かっている。自分の中の常識にとらわれすぎているのかも知れないと思ったこともあるけれど、そういうことではなくて、逐一手にとって正しさを確認しているのだとようやく気づいた。正当化するのではなく、釣り合うだけの理由を用意するのでもなく、純然な事実だけを切り取ったときでも正しいのかどうか。無理に歪曲したり屈折したりしていないかどうか。
おそらく安吾が言わんとしていることとはちがうけれど、怠惰さや性悪さみたいな、坂道を転げ落ちるような堕落に流されやすい部分ももちろんあるのだけれど、同時にだからこそ根本から美しく正しくありたいという欲求を本能として持ち合わせているんだよと、言ってもらえたようで、ほっと胸を撫で下ろす。みんながみんなこぞって、ワイドショーやメディアに共通の正しさみたいなものを求めるけれど、そこではなくて、自分の中にも血とともに流れている、あたたかでしなやかで確かなものを確認していたいしいきたいと思う。