わたしの部屋は未だネット環境にないので
日記やミクシは会社でコッソリ見たりしてるんですが、
基本ブログUPはケータイメール一辺倒なわけです。
高校生の頃みたいに夜の時間を液晶とにらめっこで潰す…
みたいなことはしてません。

こないだSに言われたことは事実かもね。
(Sチェルどうせまた笑ってんでしょお?)
寂しがりやすぎてずっと(ブログなんて呼ばれる前から)ウェブ日記書いてる。
うん当たってるんじゃん。
でもね、一個違うことがあってね、
わたしは誰かに見てほしかったんじゃないんだよ多分。
不特定多数の誰かになんて、やっぱりあまり興味がないみたい。
むしろ見てほしいのは……
うーんやっぱりやめとく。
うまく言えない。



今わたしは社会人という役割に飽きてるんではなかろーか。
一冊の雑誌を作るってことはなんというか
高校・大学含め学生の頃に夢中になってたひとつの作品を作り上げる
っていう行為となんだか近しくて
ひとつをがむしゃらにがんばれればがんばれるほど
次に向かう前にリセットとかリ・インプットとか必要な気がして
でももしかしたら本当はそんなんじゃなく
ただ飽きてるだけなのかもしれないとかも思えて
すごくよくわからない。

すごくよくわからない。っていう表現は
日本語としては正しくないんだけど、
正しいことばかりを選び取ることを潔しとはしないのが
ある種わたしのモットーだった頃とかあって、
それをひきずっているようないないような。

話がずれたからちょっと元に戻すとしよう。

ひとつの作品を無我夢中で作るっていうのは
(高校生のがむしゃらさも大学生の怠惰と真面目からの逃亡も両方ですが)
ひとつの生命みたいなもんだと思うんです。

人生でいうところの夢とか希望とかによく似たものを寄せ集めて
多量のエネルギーを自他問わずかき集めて
きらきらしたものどろどろしたものいろんなものをまとめて吐き出して
ひとつの生命体として完成させていく。
完成したあかつきがつまるところの終了?生命体の終わりというか…
だからひとつの製作作業が終わるとすごい気が抜ける。
夢中になってやればやっただけあとの空っぽ感はすごい。
ただ充足した時間を砂をさらさら落とすように名残惜しむ。
だけど終わったスッキリ感を爽快に楽しむ。
ひとつのイノチの終わりだからね。
起承転結がきっちりあって、終わりに納得がいく。

それが2、3ヵ月に一度くらいずつある今は
なんだかもしかしたら疲れてるのかもしれない。
波に乗り切れていないのかもしれない。


最近無性にイラついている。
無意味に。やけに。わけもなく。
その原因はこれなのかな。なんなのかな。


すっかり恋の火は消えた気でいたけど、
ぬくもりが単に欲しいってだけじゃなくて
(人肌恋しいとか寒いとかサミシいとか眠れないとか)
そんなんじゃなくもっとこうナチュラルにふわっと
あー…会いたいかもしれないなー…とか
顔が見たいなー元気に笑ってんのかなー…なんて
理由なく思ったりする回数がもしかしたら増えてるかもしれない。

人を好きだと思うのに理由なんてなくて、
わたしはホントに本気で「好き」が否定できなくなるまで
恋を恋と呼べない不器用なやつだから、
この状況は、ちょっと冷や汗ものかもしれない。
友はこぞって「そんな男はやめとけ」っていうし。
何するかわからない自分が怖いし。
感情にまかせて動いて後悔しそうだし。
もう痛い思いも申し訳ない思いもしたくないし。


早く次いこ、次!
…って口に出せば出すほどウソになるようで。