終章(締めくくり)的未来への野望

終章その一
人と人の関係は変わっていく。
なにひとつ変わらなく見えたって、
変わろうが変わるまいがそんなことお構いなしに、
液体のようにゼリーのように流動的に変化し続ける。
いつか、ものすごーく科学技術が発達して、
人間が歳を取ることからも逃げることができたとしても、
きっとこの事実を変えることはできない。と思う。


たとえば、
おばあちゃんや両親が、意外とどんどん歳を取っていっていて、
その事実に驚愕してちょっと哀しくなったりする。
その変化は衝撃的ともいえるスピードで、
日々の流れ作業的日常に押し流されている私に押し寄せる。突然。
まさしく「タイムマシンで正確な時間にすっと運んでくれる」ように。


人が一人でいても二人以上でいても、
変わり続けるんだから、二人以上の人の間に横たわる関係性なんて、
脆いものに決まっているよね。
常に同じであるわけがない。そりゃそうだ。


じゃあ、前向きな姿勢の質問として、
どうやってそれを手入れし続ければいいんだろう。



終章その二
過去のその人の残像に囚われて、
現在のその人を、そのまま素直に精確に直視できなくなったり、する。
過去のデータを寄せ集めるようにしてHDの中にその人を創りあげていて、
その自分が創った像によってがんじがらめになっていることに気付かない。
偶像だとか虚像(ふたつは正確には意味がちがうけど)とかってのは、
その残像から作り上げた「その人っぽいもの」の究極の寄せ集めなんだろうな。


それはある特定の人に限っていえることじゃなくて、
私にとっては、そういえば、ほぼすべての人がそうかもしれない。


高校生だった頃、
「この子はおとなしくてときどきちょっと面白いことをつぶやく子」
って勝手に分類して定義してた子の
全然知らなかった洋楽の趣味を垣間見たとき。


買ったばかりのカメラを持ち歩くのが楽しくて、
ふだんの友だちとのおしゃべりにも持って行ってパシャパシャ撮って、
現像して見たら、顔のパーツの印象が全然ちがくて
「この子ってこんな顔だっけ…」ってなんだか不思議な違和感を覚えたとき。


その瞬間、瞬間の違和感のかけらたちは、
デジャ・ヴみたいに、ちらっと閃いても、
とりあえずその場ではなかったことにされる。
そして、時間が経つと忘れられる。
たぶん、大したことでもないから。


でも、その瞬間ごとに、ちいさな目がちゃんと開いたってことは、
やっぱり忘れたくないなーと思った。
勝手に作ったハコの中に、勝手に分類してすましてるんではなくて、
ちゃんとした姿を認識しておくことが、
その人を尊重することにもつながるはずなのに。
すきとか愛とか情とか、なんでもいいけど、
今、自分にできる最大の表現方法は、
大切にすること、尊重すること、しかないのにね。



変わり続けることはきっと悪いことじゃない。
別にいいことだぁ〜!!って声を大にしていうほどのことでもないけど。
事実以上のことでも以下のことでもないし。
だけど、その流れに身をまかせることは意外と骨が折れるみたいだ。


それと同じように、
いつでも常にありのままのものを見つめ続けることっていうのは、
使い古されてたフレーズで当たり前のことなんだけど、
やっぱり難しいことだと思った。


自分の感情や偏見、希望的観測や予測、
そんなものたちを一切交えず、純粋に素のままを見つめる。
絶えることなく起こり続ける変化をものともしないで。
それを一定の目線を保ちつつ、成しえることができるようになったら、
私はわたしを成長したと思える気がする。
もしかしたらでも、そう思えた時には死の床かも知れないけどね。はは。




ここ一連の年が明けてから旅行期間中、
ずっと考えてたことシリーズ、
体調不良という名の風邪にも邪魔されつつようやくまとまった。
うまくはまとまってないけど、きっとコレで忘れない。
いつかまた独りで紐を解いて、何度も何度も噛み砕くんだろうな。
そしたら、それがきっと、もっと自分の身に沿ってくるはず。
がんばろー26歳。抱負じゃないけど。
なったばっかりだから「今年でいくつ?」って質問はすべて笑ってスルーしてやる。
ふふんだ。