校了と車内放送と宗教

チラリズムで恩義のある仕事を受けて、
校了あいまの貴重な週末がつぶれる。
でもかなり先の臨時収入はうれしい。
こうやってたまにサービス精神を発揮したような
逆に割りのよい割り切り型の仕事を恵んでもらったような
ある意味気ままなフリー具合がちょうどよい気がする。


閑話休題
ここのところ詩(と呼ぶにはおこがましいけど)みたいな散文が多かった
と、人身事故発生による遅延お詫びのアナウンスを聞きながら思う。
頭の中が散れぢれの途切れとぎれなんだろうな、と
「謝るのは鉄道会社の人じゃないのに」とか
「外国に暫く住んで戻ってきてこうゆうの聞くと
妙に郷愁で不謹慎だけどうれしくなっちゃいそう」
なんて考えがよぎりながら、思う。


やりたいことがあって、でも
今直ぐにはとりあえずのとこできなくて、
今日明日で漸く校了で、
今週末からまた仕事ではなくバタバタしそうで、
あ、そいやSkの友だちから連絡来てないや、とか
洗濯物がちっとも乾かないちっさなイライラとか、
冷房効いてくる車内だとすぐ痛くなるおなかにも
膝に当たるのが鬱陶しい、前に立ってる人のしわしわのブランド紙袋にも、
兎に角ぶんぶんガヤガヤ振り回されているのだよ。


会いたい人とゆっくりゴハンもできず、
でも実は一定期間以上会わない(または、合わない)人とは
今後の人生逢わなくてもいいってことなんじゃ…
とか一見後ろ向きくさい、でも実は
醒めきった前向きな考えとか浮かんできてしまう。
仕事し疲れて眠りに堕ちる直前の昨夜、
ウルルンインドネシアのジャングルに住むおばあさんの言った
絶妙に哲学的なコトバとか思い出して涙が出そうんなる。


わたしを哲学的と分類したのはSだけど、
その理由はわかったんだよね。
それは、わたしがあまりに自分の感情に対して
センチメンタルだからだよね。
ただでさえ大きく振れるその振れ幅を、
故意に捉えて、さらに大袈裟に騒ぎ立てるからだよね。
そこにアイデンティティを見出している私って
一体何がしたいんだ?
自分の中に深く潜って
何をとってこようとしているんだろう。


じゃあ宗教的と自らを評したSkは一体?
と考えてみると、ちがいは一目瞭然だった。


彼女の中には愛があるんだよね。
それこそ神的視点の。俯瞰そのものというか。
愛が根本にあって、
でもだからこそものすごく冷たい部分もあって、
自分の気に食わないやつはいなかったことになる。
でも根本的に広義的な意味において、
人類ってものを世界ってものを愛している。


愛から始まれば、何かを自分の中から取ってこよう
なんて発想にはつながらないんだ!
・・・なんて一口に片付けようとは夢にも思っていないけど、
ちょっとした大きなちがいに、
左の上まぶたと右太ももがぴくぴく痙攣しちゃうよ。
疲れてるだけかな。ほんとかな。