2008-09-04

わたしたちは軟弱なのだろうか。
日々一所懸命に選び取った命題を、与えられた課題を、ひたすらにこなしているだけだというのに。何も悪意や不純な動機から動いているわけでもないのに。どれだけ力を尽くしても届かないものがあることくらい、もうわたしたちは既に知っている。でも逆に、力を尽くすからこそ手に入れられるものがあることも、同じように経験から知っているのだ。そして、その経験則によって、まだまだいけると、プライドを優先する。すべてを否定され続けることなんて、はっきり言って今までなかったかもしれない。すべての行く手を八方ふさがりに遮られるなんて、確かに今までなかったかもしれない。でも、あったかもしれない。常にそこで前向きに解決法を考えられるモティベーションとバイタリティをもってして、いつでも道は拓いてきたから。だから、「あった」けど同時に「なかった」ともいえる。それでも、今はもうダメかもと思ってしまう。そんなダメかもと思ってしまうことは、別に悪くないんじゃないか。軟弱なのか?ちがうんじゃないか。ぎりぎりの正確なところはどっちなのかわからないけれど、いつだって諦めることも勇気だし、いったん力を抜いてみることだって、ひとつの解決法につながることがある、と思う。それはいつでもそうすればいいっていうんじゃなくて、時期とか頻度とかその他諸々の外的諸要因による。それでももしかしたら、叩き上げの人たちやバブリーを経験した人たち、体育会系に責め立てる人たちは「そんな考えは軟弱だ」と一刀両断に否定するかもしれない。だとしたら、わたしたちは軟弱でいい。私はそう思う。やわらかく、よわく、でも、しなやかに。言葉にしなくても、悔しくても、涙を落としても、決して譲れないものがあるから、守っていきたいものがあるから、まだ前には進める。いつだって。売り言葉を買わない選択を、正しくないとは言いたくない。不器用に眠れない夜を、無駄だなんて言いたくない。
今、思い悩むすべての軟弱な人へ。