真面目なブランケット

昨日ね。
木枯らし一番が東京に吹いたんだって。
カンタロー的季節の到来は無条件に心揺らす。
のにも拘らず、外を跳ね回ったりせず、
ベッドでブランケットにくるまって
世界から隠れて引き込もってみた。
三連休の初日だってのも、陽気の良い秋の日だってのもわかってる。
でもなんか疲れちゃってんのかもね。
メンタル的には落ち着いてるよ?
でもそういうことじゃなくて、
この慢性的な焦燥感とか卑屈さとか諦めから始まる楽観姿勢とか、
そういう、私を自分たらしめている諸事に対して、
なんだか少し疲れてしまっているのかもしれない。


昔はこういうやるせなさとかもどかしさとか拠無い感じに、
人恋しいとか恋がかなわないとか仕事が思い通りにいかないとか、
別の衝動や感情と重ね合わせてなりきることができた。
あの頃を完全に嘘だとも言い切れないけど、
やっぱり今はそんな感じじゃないみたい。
もっともっと、って精度を高めていきたいと望むから苦しいんだけど、
そう望む以外の方法を知らない。
でも精度を綿密に、上げていけば行くほど、
透明な中に空っぽな洞が見える気がして、ただ足が竦む。
何事も気に留めずただふわふわと漂っていられたらいいのに。
「あなたは真面目だから」とか言われて
その言葉の意味より事実の方に
傷ついてしまったりしなければいいのに。


何だって常にやることよりやらないことの方が難しい。
行動を起こしたり思ったり気付いたりすることより、
何にもしなかったり全く見えなかったり感じないことのほうが、
今さら敢えてやろうとするのは難しい。


でも、やる・やらないどちらの場合にしても、
必ず結果がくっついてくるっていうのが邪魔くさいな。
それがなければもっと容易く、あっち選んだりこっち選んだりできるのに。
いやでもそうなったらなったで、
どちらにしても何も変わらないなら、
選ぶという行動自体諦めてしまうのかもね。


以前どこかで書いたけど、
AとBという選択肢がある時、その人は一生ずっと同じ方を選び続けると思う。
Aを選んで失敗しても、Aは失敗するかもという事実を学習しただけで、
やっぱり土壇場ではAを選ぶ人はAを選ぶ。
Aを選んだことで生まれる危険を
回避したり解決する術は学んで実行することができるように成長しただけ。
でもその成長の積み重ねこそが生きていくってことかもしれないし。
でもやっぱり結局わたしは
AだかBだかの同じ方ばかりを選び続けて、
成長とは言っても、その中でしかできないんだ。
カンタローのばかやろう。