水たまりになった不安

目先のことばかりに気を捉られて、
大事なことまでちっとも手が回らない。
置き去りにされた思いは、
いつしか雨のように降り溜まり、
心の窪みで凪いだ水たまりになる。


心が止まっているのは、仕合わせだからなのだろうか。


いつのまにか上っ面の楽しみや笑いばかりを、
目の端で追って大袈裟にリアクションしてみせるだけで、
まわりの人を巻き込んだライフは進んでいく。
本当のところは閉じたまま、
コアな部分は隠したまま…。


十五年くらい前は、
それこそが、それだけが、
凡てだったもの。
十年くらい前は、
その呪縛から逃れることだけが全てで、
逃れることだけを焦がれ望んでいたもの。


そして今、
ようやく、自己の中でのその存在を、
認め、愛で、哀れみつつも、
客観的に見られるようになった。
と、同時に、
それを隠し、妙に他に寄り添い、
枠に収まって生きていく術も覚えた。


だから、ときおり不安になる。
このまま、ばかなふりをし続けたら、
いつかほんもののばかになってしまうんじゃないか、

と危惧したあの子のように。
このまま、隠してるつもりで
自分を欺きつづけたら、
本当のところ、コアな部分なんて、
ちぢんでしぼんで、
ぱちんと頼りない音を立てて、
消えてなくなってしまうんじゃないか
…って。


ありそうもない、起こりもしないことを不安に思う癖を、
昔の人は杞憂と呼んだけれど、
その杞憂自体こそが一生晴れないんじゃないか、
と思う不安は、
そんな言葉だけでは流せないくらい、
杞憂の言葉の意味すら越えた、
真っ暗で果てることのない底なし沼のような、
“不安”そのものなんじゃないかと思う。
今でもこっそり、そう思い続けている。