変化の相似形


一日中外にいたら死ぬんじゃないかと、
本気で思いそうな凍えそうな日が続いている。
(そんなことはないのも、もっと寒い地域があるのも、重々承知)
でもそのわりに、
思わずいろいろ衝動的にバッサリやめてしまいたくなるような、
何をしてもどこにも手が届かないような、
あの突き上げてくるような重い感覚に
閉じ込められることは殆どなくなった。
今までよりセンチメンタルではなくなったか、
今までよりセンチメンタルを受け入れられるようになったか、
のどちらかなんじゃないかと思う。


冬将軍はきっと、センチメンタリズムの象徴だ。
高校生が、信じてるくせに信じていないふりをする神様と一緒で、
(小学生が友だちには内緒でこっそりサンタクロースを信じてるのとは別)
彼の存在はsubstitutionにすぎない。
彼の名前はsubstitutionにすぎない。
共通言語を話している(はずの)相手との秘密の暗号みたいなもの。
そしてそれは、いつか終わるし、
そんなゲームからも、いつか卒業していく。
それは、万物流転、なんて格好つけていうまでもない。


いつも旅人に憧れたけれども、
持たないことも流離うことも、
できやしないことを知っている。
「しないからだよ」と
いうことは簡単だけど、
「しない」のは「できない」からで、
「できない」のは「したくない」からじゃない。
そのちがいは、いつまで経っても、
うまく説明することができない。
(それは誰かのいうとおり、自分の思い込みに囚われているだけかもしれないし、そうじゃないかもしれない。なんで、みんな決めることができるんだろう。根拠がないということは、そこに立脚しては決められないということだ。好き嫌いで決めることならできるから、じゃあ、「しない」のは「できない」からだ、っていうしかなくなる。いつも、ここではわかりあえない。平行線のまますれちがっていく。)
だけど、旅人を追うのをやめたら、
なにかが少しだけ変わる気がする。
変わるなんて大袈裟なものでなく、
少しだけずらせるというか・・・。


自分の中のセンチメンタリズムを、
冬将軍に押しつけることをやめたら、
なんだか今までよりラクになった気がするのと同じように。
両目1.5〜で見えすぎていた視力が落ちたら、
それまでより世界が優しくなった気がするのとおなじように。


憧れ続けていたものに、
ちがう形でのアプローチを考えること、
それは、
自分で勝手に狭めていたものを、
多角的に視野を広げられるということで、
つまり、可能性を広げられることだと思う。


過去経験した変化の相似形を、
別の結晶にあてはめてみると、
きっと新しい変化が生まれる。