大きく切ない

水無月こと六月は、梅雨入りしてもなかなか
ドバッと降りもせずスッキリ晴れもせず、
の微妙なお天気つづきです。


表題はもちろん愛すべきロビンに敬意を表して。
♪なぜ“大切”という字は“大”きく“切”ないのかなあ
なんでなんだろうね。
本当に大切なものほど、
大切にできなかったりするからかな。


仲の良い大好きなだれかに大切なものができるとちょっと感じる「淋しさ」について。
そんな「淋しさ」っていうのは、まぁ誰にでもあるんだろうし…、とは言ってもわたしはあまりないんだけど、ないというか、大昔に一度すべてバサッと諦めて、もろ手を挙げて降参してるので、一瞬するりと入り込む「淋しさ」は、新しい人を巻き込んださらに新たな関係性形成に向けたモティベーションに一足飛びに変わるから、イマイチわかるけどわからないところなのだけど、大切なものを見せびらかしたい、自慢したい…、みたいな感情が最近はうらやましくてならない。わたしだって負けじと大切なものの存在を、また別の大切な人と分かち合ってみたいのだけれど、幸か不幸か、最近のわたしの本当に大切なものは、そうやすやすと簡単にだれかに見せたり触らせたり、ましてや感じてもらうことができなかったり、またあるいは、本当に分かち合いたい大切な人が、目下現在のところいなかったりする。だから今のわたしは、“大きく切ない”をだれかと共有することができなくて、小さく切ない。
…ちがった、「淋しさ」の話だったんだった。ここ何ヶ月か特に仕事関係を中心になんだけど、自分の「淋しさ」を人に押しつけてあわよくば肩代わりさせよう、なんて卑劣というか迷惑な人が、世の中には意外と多くいるものだよなぁ、なんて思っていたら、これはもしかしたら別に、最近にかぎった現象ではないのじゃないかと気付いた。しあわせな生活は、その後も続くしあわせを決して保証したりしないということ。むしろしいたげられて(ちょっと無駄なくらいに)痛い目に遭ってきたほうが、しあわせにも気付けるししあわせを取り逃がさない努力をしたりできるんじゃないかな、と思った。「淋しさ」を人に我知らず押しつけてなすり付ける人は、「淋しさ」を感じた時に、ほかにどうすれば、その「淋しさ」や未来の「淋しさ」を回避できるか知らないし知ろうともしない人なんだと思う。でもこの、特に後半部分の「淋しさ」は「」の中を別の言葉に入れ替えても、違和感なく同じことがいえたりするかもしれない。そう、そういう話。
だってなんだか最近ちょっと忙しかったりしつつも幸せな充実で楽しかったから、反動的にか知らないけど、心がブルーになってしまっている。これはわたしが生来、負の部分を反射的に求めてしまうからなのか、どんな幸せな充実の一瞬の裏にもかならず他の負の感情があるものだからそこを本能的に吸い取ってしまっているからなのかは、わからない。わからないけれども、少なくともわたしは、この言い様のない淋しいような悲しいようなブルーを押しつけたりせず、向き合って自分自身の中に落としどころを見つけていきたいし、いくだろうと思う。




閑話休題
最近企画書が殊に書けない。
論理的で端的かつぱっと見ればわかる文章
みたいなものに、本当に向いていないことを痛感する。
好きな言葉や使いたい表現、美しい言い回しが好きすぎて、
なかなか切り捨てられないからと、
読んでもらうことより、
書くことに重きを置いているからだと思う。
意識改革が必要みたいだ、
少なくとも仕事に関することには。