selfとotherのはざま

前もってことわっておくけど、
今ちょうど移民系の著者の本読んでいたから。
ただ、それだけだと思う。
影響されてるだけ。
でも、それだけじゃない
・・・のかもしれない。


日本人が欧米圏諸国へ行って、
言い様のない、そこはかとない劣等感を感じたり
することがあるじゃない?
たぶんそこで生活を暮らしてみればみるほど
その土地や人と関われば関わるほど
強く、深く突き刺さるように。
劣等感なんて一言で言い表せる感情だけじゃない、
もっと複雑で言葉にできない、悲哀に似た、気持ち。


彼なり彼女なりの周囲でともに過ごす母国人たちは、
決してそんなつもりなく接してるだけで。
異国人を意識するのは、異国人の方なんだ、
と思うだろう。


だけど、
それと同じことを、
その母国人たちと同じ側を、
わたしたち日本にいる日本人たちが、
まったく経験したことがないと言ったら、
うそになる。


わたしたちはいつでも周りの環境に左右されている。
母国人か異国人か、
大多数か少数派か、
もっと言ってしまえばきっと、
わたしか他人か、みたいな
抽象的かつダイナミックな
サブジェクトになってしまうんだろうけど。


でも言いたいのはそうじゃなくて。
生まれ育った文化や風習、習慣のようなもの、
それらにまみれて首までつかって
わたしたちは生活しているけど、
そしてよく似てはいるけどちがうものを、
見て見ないふりや
おんなじものってことにしてやりすごし、
明らかにちがうものには
明白な拒絶や興味や気付きを示す、
ということを繰り返している。
それが、どれだけだれをどんなふうに傷つけているか、
なんてことには一切の注意さえ払うことなく。


だけど、それを、その違和感を、
どちら側からでも覚えておくこと、
気づくこと、見ること、忘れないことが、
大事なんじゃないかと思った。
言葉にして確認できなくても。
わたしは怖いから確認できない。
それを確認するために口に出すときに、
相手を傷つけずに済むニュアンスで伝える自信がないから。
やさしいんじゃない、こわいのだ。




強さだけでは生きてゆけなくて、
優しさが必要だと気づいた六年前の冬。
わたしは22歳になったばかりだった。
そして、優しくなることを誓った。
あれから、本当のやさしさを
身につけることができたのだろうか。
こわさを隠すための、
フェイクのやさしさではなくて、
自分のため、だれかのための
本当の意味でのやさしさ。


それを今いちど、振り返る。
六年間、何をしてきた?
誓ったやさしさとは何だった?
もう一度、いま一度、問いかける。
はざまに立って。
別に口に出して確認しようとしているんじゃない、
そのほうがいいと決めつけているわけでもない。
でも、気づきたいし、
気づいたら覚えておきたいし、
忘れてしまいたくないと思った。
・・・もしかしたら、
大切になるかもしれない人を思って。