つらつらともう一度

最近意外とバタバタしてて
なかなか更新ができにゃい…。
なんだか日々やることがあるんだよね。
 
 
先週から今週あたまはは
女子でにくを焼いたり、
一日に無謀な撮影したり、
大学の友だちと飲んだくれたりしてました。
それにしても仕事はちっとも進まないけど。
 
 
 
 
不安を抱え続けて生きていくこととか、
年長者の重くてくどいけど120%正しい小言とか、
他人にイライラしがちな最近の自分とか、
いろいろとつぶやいて考え抜いておきたいことは
いくつかあるんだけど、
まだ渦中というか
結論が出るとこまで行ってない。
でも経過をメモしとかないと、
このこんがらがった感情を忘れてしまいそうだよ。
 
 
怒りはなにも解決しないのに、
わたしってば本当に感情的でストレートな人間だなぁと思う。
まっすぐなんじゃなくてひねくれてるのに、
直結型というかなんというか。
うそがつけない正直者とも言える。
 
 
わかっていることを何度も確認するのは必要。
わかっていることでも実践するのは意外と難。
飲んだ夜にわかっていた友情を確認して、
自分のしがみついている弱さを
「知ってたけどね」と思いつつ手放せない確認もした。
 
 
一言で言ってしまえば
feel unsecure で、
でもそんなことも言ってられないような
目まぐるしい世の中で。
 
甘いたまねぎのたくさん入ったハンバーグを食べながら、
となりのテーブルの可愛らしい女子二人が
政治を憂いている図に眉唾とか、
横断歩道の縦線がいつのまにかなくなっていたこととか、
当たり前のように思えていたことが平気で変わっていき、
変わったことさえ忘れてしまうような、
あまりにもコンシャスネスレスなんじゃないかとか、
画一化された価値観に固まらず柔らかくありたいのに、
それがもしかしたら気づかない間に
ゆっくりと固まりはじめていそうなこととか、
変わり続けることと変わらないこと、
それを認めて受け入れることとやんわりと拒絶すること、
ふたつの間でいつだって葛藤で揺れ動いている。
 
 
いずれにせよ、
わたしは世の常としてある大きな流れに
そのまま身を任せて瞳を閉じてしまうことに
センチメンタルを覚えているのだと思う。
そうなる日がいつか最後の一日だけ来ることは事実で、
その日をできれば可能なかぎりベストな状態で迎えたい。
流れに自ら乗ることは必要だけれども、
乗るも反るも惰性ではだめというかイヤで、
その惰性の流れでなく
いつだってデフォルトとして
意思で選べる通常ということを
こよなく愛しているのだと思う。
そしてそのいつか来る一日に
文字通り「死んでもいいくらい」究極のセンチメンタルを
浴びるように享受したい。
ある意味ライフタイムをかけた
一大ティーザー絶賛実施中!みたいな。
大袈裟かしらね。
 
 
 
 
みんなが意外とまじめにいろんなことを考えてることに
気づきはじめた二十代もすでに後半で、
前半は気づいてビックリしてるだけで過ぎてっちゃったから、
後半のいま、いそいでちゃんと話を聞こうとしてる。
話を持ってることに驚いてばかりはいられない。
つぎは収集しなくては。
だからいま、会い直したい人やゴハンしたい人が
たくさんいるのだ。幸運なことに。
残り時間はいつだって減ってく一方だけど、
楽しく充実した時間は、
あたためられた空気のように、
無限とみまごう感じに膨らむから大丈夫。
実際の時間の何十倍もの密度でもって心の中に残っていく。