蝉の声はまだ聞こえない

怒涛のような日々の中で気づけば7月も後半戦。
アレコレやることがたくさんあってビックリする。
実家ではおじいちゃんの遺言下書きまでしちゃったよ。
梅雨が明けたと思ったら、
溶けて死ぬるんじゃないかの猛暑で日和る。
外出たくないし、
働きたくないし、
食べたくないし、
人波も近づきたくない。
コンクリートサウナは熱地獄。
 
 
しばらくは体力の消耗が激しいので、
会社と自宅の往復くらいで精一杯かも。
暑さに慣れるまで省エネモードで行動しないと
絶対バテてぶったおれます。
 
 
いかにも夏!なおばあちゃんちのお勝手。
採れたてスイカと茄子と黒瓜に茹でたて枝豆。
これ以上の夏があろうか。
 
 
 
 
だいぶ懐かしい感じのアットホームな結婚式や
小学生の夏休みみたいな祖父母の家や
乳飲み子や幼児を抱く同級生や
新婚ほやほや夫妻&仲睦まじい同僚カップルや
恥ずかしいくらい懐かしい高校時代の写真山盛り!
なんかを見ていたら、
あることに気づいてしまった。
「どうしようもなく止められないほど好きになっていく」
みたいな感覚って、
昔はあったけど最近は確かになくて、
もう二度と来ないかも知れない。
…まじで?
好きになっていくのを止められなくて、
感情の振れ幅が手に負えないくらい大きくて、
確かに恋って落っこちるもんなんだ…
ってばかみたいなこと実感しちゃう感じ。
まだ来るよね?来るはずだよね?って思うけど、
なんか漠然と不安になってしまう。
恋に落ちるのって勢いとか熱さが必要で、
年々そういうモノは薄味になってくのかも。
 
 
…ぶっちゃけ心の隅の端っこのどっかで、
一人で生きてくのもやぶさかではない…
とか思っちゃってるけども、
仕事とか夢とか漠然としたものじゃなくて、
“他”という、実在があってなおかつ変わり続ける
永遠でない存在に情熱を注いではいたいよね、
とか思う。
不変でも永遠でもないからこそ、
その存在を慈しめるのだし。
まだいけるはず。出会えるはず。
それは確かに無根拠の自信としてあるのだけれど。
でもさすがに父親の同級生の正しく正しすぎるおじさん、
(しかも私がちっちゃい時からその正しすぎる風貌も変わらない)
その人にたしなめられると、
肩を竦めて正座するしか、ない。
明らかに周囲が求める幸せの形みたいなものに、
こうして私は一生逆らって(端から見たら)気ままに
選んで生きていくのかしら…みたいな。
思えば昔からうまいこと型には嵌まれなかった自分、
そんなちっちゃい自分がやるせなくでも同時に開き直って、
やっぱり肩を竦めるしか、ない。
 
 
これでもきっとわたしは幸せなのだ。
ほかの人から見たってまだ幸せに見えるだろうし。
それはそれでいいと思う。
そういられるようになっただけ成長してきた(ふたつの意味でね)。
ただいつだって怖すぎるのは、
生涯独身で通した愛すべきだけど偏屈な大叔母や、
前編集部の妙に乙女チックなオールドミスでアラ団のボスの姿だ。
どう考えてもああいう風にはなりたくなくて、
それは若い女の子に
「ああいう風にはなりたくない」と思われるような
自分にはなりたくないから怖いんだ。
不安ではなく恐怖。
それはきっと不安より厄介な気がする。