いつだってフォビア

わたしは義務みたいに思われたくない。
 
 
ともだちでもこいびとでもすべてにとってそうだけれど、
自分のそんざいが義務みたいには思われたくない。
いつだって、
会いたいから会いたい、
話したいから話したい、
そばにいたいからそばにいるんだと思われたい。
 
 
人と話すことはいつだって、
コンプリケイティッドでこんがらがったもやもやを
ひとつずつ紐といてクリアにしてくれるけど、
それは時として少しばかりさみしい。
こんがらがってごっちゃりして
心ん中にころがってるほうが安心する時もあるし、
クリアになってみた答えは
思ってもかけない痛みを伴う時もある。
もちろんソリューションはいつだって
変化への架け橋になりうるから、
喜ばしく受け入れるに相応しいものなんだろうけど、
わたしはセンチメンタルな人間だから、
失うものに後ろ髪引かれる感じを
否定することはやはりできない。
出会いに対する別れを、
収得に対する喪失を、
受け流すこともなかったものにすることも、
よくあることだと順応してしまうこともできない。
人と話すことは佳きことなのだけれど。
 
 
ゆるやかに下降ラインを描きそうな淵っぺたにいる。
このままマイナス思考ラインをたどるのだろうか。
それとも2、3日で持ち直すものだろうか。
世の中には気持ち悪い人が多すぎる。
そう思いながら駅の人込みを縫って抜け出したけど、
気持ち悪い人と同数くらいで
わたしにとっての優しい人が多いことを鑑みると、
気持ち悪い人もきっと
見知らぬだれかにとっては優しいかけがえのない人なんだろうなと、
急にあったかい気持ちになった。
 
 
人間はよくできている。
神様に似せただけの出来損ないだとしても、
やっぱりよくできてる。
外側に出ている部分だけじゃおぇっとなっちゃうことも、
ちゃんと想像力で補えるだけの能力を与えられている。
見えない部分があるから想像して補完できる。
ほんとにそうだとしてもそうじゃないとしても。
そういう時のほんとなんてどうでもいいのだ。
要は想像できるだけ余地を持っているかどうか、
ちゃんと空けておいてこれたかどうか。
 
 
 
 
あ おじいちゃんに会いに行ってきたよ。