「今やろうと思ってたのに」的な

あれから半月くらい経ってようやくわかったよ。
郵便局を目前に目黒通りを横断する信号を待ちながら。


わたしはずっと、「自分が生きた証」を、いつかは遺したいと無意識の頃から思っていて、それは名前を残すとか誰でも知ってる傑作を創るとか人々の記憶に死んでなお残るとか、そんな類の話ではなくて、もっとプリミティブで、シンプルかつ普遍的なやりかたであるはずだと思っていた。それは少しちがうけど柳さんたちの民藝運動に近いような感じで。こないだ戻った感覚は、その根幹に触れたからだと思う。


あの日は来月結婚するともだちのため、上京組の共通のともだちの家で、サプライズムービー撮影会をしていた。編集もろもろは地元組に任せてあるから、担当分を録り終えてビールでプチ打ち上げをしていた。
そしたら話の流れから家主がファイルを出してきた。そこにはわたしは学生時代に彼女を描いた絵があった。もうすっかり存在も忘れてたいたその絵を彼女は気に入って大事に持っていたんだ。
そこにはグリーンを基調に色鉛筆でスケッチブックに描かれた彼女がいた。ななめから見た構図は、彼女が当時の阿佐ヶ谷の私の部屋に遊びに来ていた時、デッサンを何枚かとったところから固めた。流し目風でちょっといびつな斜め向きの顔は、当時、私が彼女の中に感じ取ったもどかしさとか青さとか、潔さとか不安みたいなものを、もう一度思い出させた。
そして、それを見せながら、自分でももう一度よく見ながら、「もう一回描きなよ」と彼女は言った。そう、同じ瞬間にわたしも、また描きたいなと思っていた。カメラで瞬間を切り撮るのは好きだ。でもカメラは被写体を撮るのではなくて、被写体に映ったカメラマン自身を撮っているよね、という話をしていたからかも知れない。絵は、被写体への思いを描くような気がする。わたしは人しか描けないからわからないけれども。


やめていたことを、もう一回始めてみようかなというのはこの話。最近は少し文章に疲れているのかも知れない。向き合いすぎたかも知れない、とも思う。文章をやめることはないけど、たまには距離を置くことも必要だ。
でも描こう描こうと思いながら、スケッチブックは床に出しっぱなしのまま、半月も経ってしまった。わたしは何も描けずにいる。描けずにいるのか、描かずにいるのか。だけど、描く。描こうと思う。自分のラインをなぞり直すみたいに。
それがもしかしたらまた、誰かの手元に留まるかも知れない。留まらないかも知れない。でもそういうことなんだと思った。