追いつ追われつ

おっかけられてるような心持ちで、
ひとつずつの予定をこなしてるつもりが
気づいたら、流してつぶしているだけかも知れない今日このごろ。
 
 
それはおっかけられてるんだかおっかけてるんだか。
このせっかちな性質のせいで昔から、
後を追ってるつもりが抜き去って前にいた、みたいな
…あちゃあな感覚がよくあった。
笑っちゃうのは、
それでも身体能力は高くないから
ほんとに走って抜いちゃうみたいなカッコイイ経験はないこと。
 
 
もう10年以上前に
故郷から何十万キロと離れたセカンドホームで、
ほんとうの意味での幼なじみに
同じように痛々しく思いを馳せたことをふと思い出す。
今ごろ彼女は何をしているんだろう。
まだあの白い家に暮らしているのだろうか。
きちきちしすぎている、と幼いわたしは苦手だった。
お母さんが家の中で歌うように「さん」づけで娘を呼ぶことも、
絵に描いたように、成績優秀だけどゲーム三昧のお兄さんと仲間たちも、
なにひとつ自分では決められないような彼女のことも、
なにかどこか現実味がなくて違和感だったんだと思う。
それにもかかわらず、
憧れを追い抜いちゃったつもりでよんどころなくて、
何かを伝えなきゃと思った十代の自分は
その時だってわかっていたけど、
今思い返してもおんなじ思いで
それは結局、傲慢さ以外の何ものでもないね。
 
 
きっと人生最初の頃の記憶は思いも因らない形で、
いつでも思い出せる手近な引き出しに仕舞われているにちがいない。
彼女のことを思い出していたら、
あの家の正門、白い裏木戸、庭、玄関へのアプローチから
フローリングの上がり框、ピアノレッスンの部屋まで、
駆け抜けるように当時のままに思い出せる。
 
整理整頓が苦手なわたしでも、一気にこの記憶の整理をする日がくるのだろうか。
もっと奥の場所に入れ替えたいことは間違いないけど、
おそらくそのためには
相当腕がよくて忍耐強い精神科の先生が必要だと思う。
 
 
 
 
 
いまほしいものは
 
疾走感
思い切り
自信
豊富な語彙
 
いつもおんなじ言葉をたくさん使って迷いながらゆるく持久走しているのはもういやなんだ。