懐メロを聴きながらとりとめもなく

高校生の頃、おっとこまえーな先輩がいた。
(そして案の定、ビアン疑惑もまことしやかに囁かれていた。)
その先輩由来(又聞きだからね)のバンドを、わたしは今もよく聴く。
(といってももっぱらiPodでだけれど。)
過去のエントリーでもいくつか触れているとおり。
なんでこんなにたびたび思いを馳せるのかといえば、
十代の、重く感じていたけど実は軽かった時間がとても懐かしいから。
思い出せばまだもっかいがんばれる、と思うから。
過去はいつだって未来へ踏み出す気合と自信をくれる。
 
 
そんな一曲の出だしに、いまだに打ち抜かれる。
もうきもちわるいくらい自己憐憫で独りよがりな、高校生みたいな一言を
突き抜けるようにきもちよく言い切ってくれるから。
 
この曲はサビの部分も特徴的なんだった。
歌詞カードには英語詞が当てられているけど
日本語に聴こえるように歌う
バイリンガルになっている。
(…いま調べてみたら、日本語の歌詞が
 交通法規に触れるから活字化を避け、
 似たような音の英詞をつけた、ということみたい。) 
そういうちっさい遊び心(と思っていた)みたいなものも、
なんというか、田舎で腐ってる(気がしてた、けどいま思えば健全だった)ような
何の取り柄も強みもないただの高校生からすると、
テンションアップ↑↑な対象だったのだと思う。
そしていまもその心境は、よくもわるくも変わらなくて、
相も変わらずマイナス思考な出だしに
心を持ってかれたりしてるわけです。
 
 
しばしば考えることには、
人間関係ってなんのかの言って不思議だということ。
本当は“むずかしい”って書こうとしたのだけど、
難解なわけでも複雑なわけでもない。
よくわからないって意味で“むずかしい”と思う。
シンプルっちゃシンプルだけど、
大抵予想は外れて意外なほうへ進むし、
生ものだから鮮度があるし賞味期限もたぶんある。
(もっかい新しくやり直すこともできるけどね。)
 
人が好きなんだけど、認識されて対象とされることはちょっと苦手だから、
そんな部分をうまくぼかして魔法のマントで近づいてきてくれるような人がすき。
昔から人から受ける評価は「おっきすぎる服を着せられて居心地が悪い」感じ
(この表現は誰かの何かの小説の引用だった)がしていた。
ずっとつづいているembarrassment。ループに∞。
 
褒められるのはうれしいし、
素敵な結果が出たらもちろん褒められたいんだけど、
そういうことではなく評価されることが苦手だった。
…うまく説明できないけど。
 
結果としての評価じゃなくて、
全体的な、いわゆる相対評価、が苦手なんだと思う。
(クラスメイト40人の中でだれが級長に適当かな、と考える教師の評価みたいな)
でもそれって結局、
向き不向きややる気のあるなしとは無関係で、
なんていうか第一印象で「こうあってくれるといいな」っていう
教師側の希望でしかないと思うんだよね。
本人のやりたい気持ちを評価してくれれば絶対評価なのにさ。
 
そしていまは例として学校のクラスで例えたけれど、
おんなじことは社会でも日常のどんなソサエティでも起こっている。
別にそれを否定する気はないけど、
(そして全くすべてが居心地の悪い評価であるわけでは決してないし)
自分の思い描く像とは全然ちがうところで結ばれた虚像を、
素直に受け入れてしまって安住できるようには感じられない。
居心地の悪さは、ある。
押し付けられた人物像に。
宛てがわれた役割に。
頼んでもないし望んでもない他人の理想に。
いやなんじゃなくて
怒ったり哀しんでるんじゃなくて、
なんだか役不足で申し訳ないような、
でも思い込みをぶち壊すのも申し訳ないし、
でもやっぱり本当はちがうって言うことが正しい気がするし、
…一言でいえば、やっぱり決まりが悪い。
 
 
いつか「サイズの合わないお洋服」に自分の身の丈が合うかも知れない、
そんな日が待ってればそのうちやってくるかも知れない、
そう思ってとりあえずその場凌ぎ的にやってはみるけど、
やっぱりそんな日は(大して望んでもいないのに)
やってきはしないように思われるんだよね。