だから大丈夫だと思っていた

想像力にはちょっと自信がある。創造力はないかも知れないけど。
 
これまでに何度となく理想としてきたことが打ち砕かれた記憶は、繙いてみると自分で思っている以上にたくさんあって。そういう目に遭うたび、不運な星回りなんだとか、絵に描いた餅と現実はちがうに決まってるとか、別にネガティヴにではなくあきらめてきた。「思っている以上にたくさん」って感じるわけは、私がポジティヴに忘れて行っちゃうから。反省しようもなかった過去は、それはそれとして一個ずつ律儀に数え上げはしないから。
友だちの様子をうらやましく思ったりする。それはいつか遠い昔に、本で読んだり話を聞いたりして憧れたり夢想したシチュエーションや一場面だったりする。そしてその瞬間が、自分にもあり得るだろうかと当てはめてみて、あまりにかけ離れていたり不可能だったりして愕然とショックを受ける。
 
それは具体例を挙げるならば結婚式のヴァージンロード。既に何度も話したことがあるように、蜘蛛膜下で手術後の父親は、がんばらないから亀みたいにしか進めないし、自分がされるならともかくエスコートなんてとてもじゃない。さらに初めての場所で衆目の的なんて有り得ない。いやでも倒れる前からああいう場所にもっとも似つかわしくない人だと思っていたけど。そしてもとから私にもそこに強い憧れはないのだけれど。それでも友だちの式に立ち会えば、いいなお父さん素敵だな、とは思う。だけど、父親と腕を組んでヴァージンロードを歩くことは、きっと一生ない。
そういう類のこと。恋愛とか結婚とかではなくて、自分の人生が、いつかどこかで見たことあるようないわゆる‘ありふれた幸せ’シチュエーションのドラマや物語の1シーンのようになることはない、とはっきりと悟る瞬間。それが、確かに‘思っていたより’多くて、その瞬間にはやっぱりがっかりする。憧れたり望んだりしていなかったとしても、だ。家族や友人との会食や、親子の和解や、若い恋人たちのたわむれや、洗練された生活や、ロマンティックなデートとか。子どもの頃に見たこと、想像したことあるものは、似つかわしい年齢になればいつか自分にも、当たり前に訪れるものだと思っていたのだと思う。
 
だけど、そんな風に思う意味も必要も1mmもないのだと、久々の大雪で白さ眩しい街に反射して電車のドアに写った顔を見ながら気づいた。
小学生の頃、たぶん授業参観の課題とかで、母親とお互いに似顔絵を描き合った。子どもの私はその時の自分なりにはなかなかうまく描けたつもりで、だけど最後にお互いに見せ合った時の衝撃をすごく覚えている。たぶん私はあの時生まれて初めて人間の親の愛情の深さみたいなものを視覚的に捉えて理解した。
ガラス越しに映る自分の顔の輪郭を見てそのことを思い出して、今度四月に実家へ戻ったらあの絵のことを聞こう、まだどこかにあるだろうか、ないならもう一度母と同じことをしてみようかと思った時、それはたぶん世界のどこにもない私だけのとても素敵なことだと気づいた。
今まで映画館でも本の中にもそんなシーンを見たことはなかったけど、そんな風に今の母と私は向き合うことがこれ以上ないくらい自然で、外から見たらいびつでも風雅でなくても、そうやってちゃんと生でリアルで厚みのあるものを築いてこられていたんだなあ、と。だから眩しいふりをして目尻に溜まった雫をぱちぱち振り落とすのだ。