生とか死とか人間関係とか

先夜は久しぶりに母と長電話をして、最近思っていることや感じたことを聞いてもらった。そしてもう一度、わたしはこの女性の娘である、と確認した。
いろいろとここでは書けないけれど、わたしのまわりでは現在意外とベイビーブームで、でもまあ年齢を鑑みれば至極当然で、となると現代ならではのイシューぶくみの件も併存している。そういう枝葉部分の具体例だけにとどまらず、現在わたしたちを取り巻く環境と政治の対処について、それを自分なりに捉える根幹の考え方みたいなもの、いわば信念や拠り所、それらをわたしは母から受け継いでいる。そしてその方法はきっと血とかDNAとかではなく(もちろん血はつながっているけど)、もっとある意味後天的に与えられたものなんだと感じる。
わたしはもっと多感だった頃ずっと、子どもなんか産みたくないと思っていた。妊婦さんが幸せの象徴のように決め付けられている(ように感じた)ことは理不尽に思えたし、なにより自分の遺伝子を持った他人(自分以外の存在)が、もう一度自分と同じようにメンタル的に苦しまなくてはいけないことをなんだか不憫に感じていたから。それは進化していない無意味な繰り返しに思えたから。もちろん今はそんなふうに頑なに一途に悲観的だけではなく多様な可能性に希望を馳せて考えられるけれど、でも同時にまだ、自分の(遺伝子を持つ)子どもがどうしても欲しい、とは思わない。この男性の遺伝子を持った子どもが欲しい、と思う日はラッキーなら来るかも知れないとは思う。If I am lucky enough...
できるだけ気をつけてはいるけれど、そんな理由で、ときどき辛辣と取られかねない発言をしがちだ。それは単純にこれまでの考え方が根本的にちがう、別の人間なんだから、とは一概に片付けられなくて、聞いている側は、非難されていると受け取ってしまいかねない。そのくらい、現代において子どもをつくる話はデリケートかつセンシティブな話題となりつつある。
だけどうらやましいなと思うのは、とにかくみなさん自分の子どもがほしいと、強く純粋に思えて、なおかつ(うちの母が一番に口にしたように)こんな時代に子どもを産んで育てたいと、背負い切れてしまうこと。それはものすごいことだと思う。現実的に世紀末より滅法ひどくて、明るい兆しどころかトンネルが地上に抜けられているかどうかさえ危ういような、こんな真っ暗な状況の中で、きっとおそらく本能的なものなのだろうけれど、子孫を、未来を、可能性をつくっていこうという気概。まだそれが自分にあるかどうか、わたしにはわからない。口先だけで子どもがほしいとか、次世代が必要とか、きれいに言うことはできるけど、本心のところはどっちつかずでわからない。
自分の財産だけでは飽き足らず生命まで賭して、だれかの、しかもまだここにいない特定の「だれか」のために、わたしは現在を生きられるのだろうか。