はいはい、はいはい

今夏は遅ればせながら「追悼・吉本隆明」とこっそり題して、その著書と向き合っている。まだ最新刊には手をつけてないけど。現状ちょっと息切れ気味だけど。
いま手元にあるのは「最後の親鸞」と「悪人正機」で、同じように浄土真宗親鸞にまつわる話かと思いきや、難易度も著し方もまったく別物でびっくりする。けれど、重ね合わせるように、補足し合うように読んで漸くわかったりすることがあるから、つい交互に読み合わせたりする。もう少しちゃんと咀嚼できたら次の本へと進みたい。

バッドスパイラルでくさくさしていて、そのままふて腐れて拗ねていたのだけど、それでも前々から決まっていた話や仕事を放り出すだけの勇気もないし、そんな不律儀なことは好みじゃないから、仕方なく毎日ちょっといいお顔の面を装着したまま泳いでいく。何事も10年続けてやっと初めて一人前だ、と吉本御大はおっしゃっているから、やっぱり編集者も10年続けてみるかと思ってみると、気づいたらもう7年目かよ!?と驚愕してみたり。職業が人格を司る、みたいなことは絶対にあって、それはかなり実感を伴う感想なのだけれど、そんなこと実際に働き出してみるまでは知らなかった、というか考えもしなかったし、今さら間違ったかなあーなんて思っても仕方ないし、カタチや関わり方を変えながらもこれをどこまで続けられるのか、ある意味見物だなと思う。
と、いつものように自分のことさえ斜俯瞰的な視点。いやむしろ自分のことだからこそか。人のことのほうが、その立場にできるだけ立っていたくて主観的かも知れない。
話は戻るけど、それでも本当に、ここではないどこか、なんて一生探してもたぶん思ったようなところは出会わなくて、だってなくて、それを知っていても結局心の片隅でずっとこっそり信じて探し続けている、というのが一番よいような気がする。探すのをやめちゃったら諦めたみたいで後味の悪さが残るし、逆に「天職に就いてる!」みたいな今いる場所が最良の場所に違いないなんて、思い込めは到底しないのだから、そうするより他に手段がないじゃないか。まぁ、そう見えるカタチが一つだけという話かも知れないけれど。

たくさんの人と出会えば出会うほど、生き方や考え方や常識は多様性と混沌に満ちていて、困ったりぶつかったりすることもあるけど、やっぱり楽しくて面白い。一緒じゃないから同じじゃないから、多角的な視点を学べるのだし、ぶつかる時の痛みや力みたいなものを思い知るから。なんだか私だけが新しい世界や人との出会いから疎外されて取り残されているような、軽めの絶望感みたいなものに取り巻かれていた(いる)けれども、真の友達を作れる時期は人生の最初のほうのほんの一瞬、だからあとは孤独、というバッサリ一刀両断されたような、御大の言葉に一生懸命すがりついてみる。論理的に、そして絶対的に本能的に、よくわかっていたつもりなのに、あたたかい(決して熱くない)人間関係の中に身を浸しているうちに、つい忘れてしまうんだよね。忘れるというか、そうじゃなかったかもとか考えることを止めてしまうというか。人は誰かによって助けられたり支えられたりはしているけれど、それでも独りで生まれて独りで死ぬんだ。産道を通る時は双子ですら独りだし、心中したって一緒に死ねるわけじゃない。これは、どうしてもつい群れの近くにいたいと思ってしまう自分への訓戒。群れることはできない性質のくせに、せめて群れの近くで一員の気分でいたいんだよね。こうもりの習性はいつまで経っても変わらないみたいだ。まったくがっかりしちゃうね。

なんて、つらつらまわりくどすぎる思考回路で回り続ける自分は、できることならただうちの母みたいに「はいはい」と言って聞き流してしまいたい。