はるのあらしとは

なんだかへろへろな一週間ももはや金曜日。やるべきことが終わってない。やるつもりだったことに手がつけられていない。大雑把な性格の割にはある程度、予定みたいなものを自分の中では立てて取り組んでいるつもりなんだけどなあ。怠け心を全開にして遊びを優先させたりしていないし、友達の急なお願いも申し訳ないけど丁重にお断りして、ちゃんとやるべきことをできるだけ優先しているはずなのに、突発的な事項が多すぎる。甘く見積もりすぎていたのか。でも何より、週明け早々受けたダメージが大きかったことが問題だと思う。一度立ち止まって諸々のことを考え直す必要性みたいなものを痛感してしまったから。

人生設計なんてものを、そこまでしっかりみんな考えているものなのだろうか。果たしてそれは、持っている人の話を聞けば自分にも持てるものなのだろうか。人真似ではなく自分自身のオリジナルのそれを。いやオリジナルである必要はないのかも知れない。でも誰かの青写真を真似て作って実行していったら、どこかで不具合や障害にぶち当たった時、その元になった人のせいにしてしまいそうで。
ライフスタイルだとか自分の人生だとかオリジナリティとか。わたしだけかも知れないけれど、ちょっと食傷気味だ。あたまからそんなの押し付けられて、まるで持っていないことが恥ずべきことかもはや犯罪みたいに、そんな風に思わされることにも疲れてしまった。

何度も何度も先週から反復している言葉は「前適応」の一言に尽きる。今ある現状に、なんらかの生きにくさや窮屈さを感じて、少しでも変わっていこうと、進化の前段階を始める種の動き。
最近の若い女の子たちの流行りがわからなくなるのは、前適応をいつの間にかやめてしまうから。いつまでも貪欲さ(と、たぶん不安)を持ち続けていなければ、なんとかしようなんて焦りにも似た前向きさとは呼び難いあの衝動を持続させることはできない。
人生設計という言葉に反感や偽善性を感じるのは、どうなるかわからない未来のために現状を打破していきたい前適応の症状のひとつなのだと、まだ信じたい。未来がどうなるか予測がついてしまっていたならば、もう進化の必要はない。というか、進化する必要がない未来図しか描けなくなってしまいそうで怖いのかも知れない。

まだまだ書きたいことはあるのだけど、続きはまた今夜以降に。わたしにはまだ書かなければいけない、優先されるべき原稿があるから。