朽ちていく運命


気がつけばもう六月で、
昨日はムシバの日でした。
五月があまりにあっという間だったので、
名残惜しいというか、梅雨が怖いというか。
今や懐かしの『虫歯の誕生日』を口ずさみながら、
京の花街のひとつ荒木町と、
キャンパスライフの四ッ谷と初上陸の北区へ。
そして夕飯の買い物して帰って、
おうちで小松菜のおひたしとか作って食べて、
半年ぶりくらいに友だちから電話があって、
(最近とれなかったりできない電話が多いんだけど)
たまたまタイミングがよくて一時間くらい話せたり
なんて、日々大切だけど何でもないことをしていたら、
・・・なんていうか、
世界は永遠に回っていく気がした。



小学校六年生で
人生初の虫歯が出来た時、とか
渋谷の単館系映画館で
字幕がぼやけて見えた時、とか
図画工作の授業で
左中指を彫刻刀で切っちゃった時、とか
(実際にはわたしはないけどきっと)
スノーボードの雪山で
手足首の腱にゆがみやキズが入った時、とか
etc・・・


完璧だったはずのカラダが
劣化していく、というか
疵付いていく、というか
朽ちていくように感じた。
そしてどんどん、年々、
そのスピードは加速していく。


どこかで、その「キズ」や「レツ」感に諦めて、
仕方がない、と言い聞かせて、
でもみんなそうだし大丈夫、とか、
意味のわかんない慰めを自分にして、
そうやって見ないふりして忘れちゃって、
毎日を繰っていっているけど、
本当はすごーく、
すごくすごーく、さみしく悲しかったなあ、
と思い出した。


別にキズそのものの痛さとかつらさではなくて、
キズついたことに、どうしようもなく傷つく。
世界に、宇宙にたった一個しかない、
自分だけの自分のための大切なカラダなのに、
どんどんだんだんキズが増えていく。
それでも、カラダは
そんな自分に怒りもせずに、
健気に毎日がんばってくれる。
だけど、あの時の、どうしようもない悲しさを、
ちゃんと覚えておきたいなと思った。
見て見ぬふりではなく、悲しさと向き合っておきたい。
向き合えば、悲しい感情だって熟成して昇華する。



キズが経年変化して、いい艶とか古傷とか飴色とか、
そういう魅力へと変わったものをまとった自分のカラダを、
もっと素直に、自然に、
すべて含めて、愛しく大切に思えるようになるといいと思う。
どこかで、もったいないとか、ああショック・・とか
思ってしまっているところが、今はまだあるから、
心の底からは思えていない気がするけど、でも、いつか。
すべてを赦し認めて、大切にできるように。


大人になるって、
そんなに悪いことじゃない、と
高校生だった自分に教えてあげたいと思った。
優しく、強く、ちょっといい加減に、
そして弱く、ゆるく、だけど見極められる、
そんな風に、自分を磨いていけるってことだ。
許したり赦されたり、認めたり驚いたり、
そんな繰り返しがずっと続けていけるかもしれないとしたら、
どんどん歳を重ねていくのは楽しいかもしれない。
今漸く、ちょっとそんな風に思い始めている。