挫折の先の非連続性

空気がすっかり秋で、
透度を増した空が青く高くて、
馬も人も肥ゆるこゆるユルコ。
夏の結果も水の泡。
最近つらつらととどまることなく思考が流れるというよりは、どちらかというとぱつんぱつんと切り取られるような単発の浮遊が絶え間なく現れ消える、を繰り返す感じが多い。たとえば洋服のことと仕事のメールのことと天気のことと生きる真理のこと、それらの断片が代わる代わる浮いたり沈んだりしている。常に、言ってしまえばそんな感じ。
だれかのストーリーが跡切れるという事実はやはり堪える…というか、意外とダメージを受けていて、それによって、‘連続性’や‘継続的であること’に無意識の、かつ絶大なる信頼をおいていま現在を生き泳いでいることに、漸く気付く。そしてその信頼があまりに無根拠で、実際は脆いものであることに愕然として、さらに軽く失望する。大なり小なり一部であれ全部であれ、ここに存在するストーリーのどれもが、いつかは終わる(しかもそれは必ずしも完結という美しい形を取れるわけではない)ことは始めから決まっていて、例外は決してない。それをどのように理解し咀嚼し納得すればいいのだろう。わたしたちはつい、自分だけは特別で完全な存在だ、と思いたがる。自分のストーリーだけは、永遠なるエヴァーアフターなのだと、またはそれに準じる美しさや誇りを、兼ね備えて然るべき祝福されたものなのだ、と。現実世界にはそうではない他者が存在することは重々知りつつ、それでも自分だけはそうはならない、奇蹟の例外なのだと思い込んで憚らない。
ほんとうの挫折を知る人は、それを知らない人を卑下したり、ましてや憐れんだりなどしない。妬んだり嫉んだりすることすらしないように思う。自分の挫折と他者の挫折感をむざむざ比べてみたりしないのだ。はじめから比べようも並べようもないものを。でももしかしたらそれは、こうあってほしいという理想論なのかもしれない。みんな自分の挫折に多かれ少なかれプライドを持っていて、他人のものより断然辛かった、断然大きい、みたいなことを思いたいのかもしれない。だけど、本当は比較できない、その‘喪失感’や‘敗北感’を経験値として、きちんと感じておくことはすごく重要で有益なことだと思う。比較して勝手に劣等感や疎外感を感じることも‘ご自由にどうぞ’だけれども、耐久性をつけること、それこそズーニー先生が最近継続して考察していること「逃げず、弱らず、戦わず」に向き合うための力をつけていくってことなのだろうと思った。


閑話休題
最近ここの項目をひとつ書くのに、
何日もかかってしまう。
基本移動時間にしか書かないからかもしれないけど、
指の進むスピードが
あまりにも思考に追いつかなくて困る。
かといってPCで書くと
明らかに余計なことばを加えすぎで、
さらに考察や推敲が足らないから、
サラッとしすぎてしまう。
なんかいい方法はないものか。


今日の続きはあるんだけど、
気が向いたらまた今度。