人生の真理

ときどき、ふとした瞬間に、
問いかけ続けていた答えが
ぽっと見つかったように思えたりする。
 
 
そんなのきっと、
あまりに当たり前のことすぎて、
真っ当な成熟した人たちは、
わざわざ口に出したりしないし、
もっと前段階で答えを探すなんて、
そんな必要さえもないのかも知れない。
でも私にはいまだにそういう瞬間がある。
忘れていた手の届かなかったモノに
思いがけず触れるような瞬間。
 
 
 
 
それがやってきたのは、
尖りきった舌鋒も鋭く、
対岸の意見を木っ端みじんに粉砕していた頃の
真っ青な私ではなく、
そんな過去の自分を少なくとも冷静に振り返って、
「猛々しく見苦しいな」
と顔を赤らめるくらいの分別をわきまえたな、
とちょっとホッとした次の朝だった。
 
 
人が生きていることには意味なんてなくて、
だから生き甲斐だとか目標だとか愛を、
生涯かけて人はいろんな形で追い求めるのだし、
それこそまさに、自分さえ信じ抜けさえすれば、
どんなものだって
意味にも意義にも価値にもなるものだと思っている。
その原点は変わらない。
でも、幸せは、
それとはまた別次元にちがう形で存在している、
のかもしれないと思った。
そしてたぶん、それは真実だ。
 
 
意義とか価値は自分でそうだと信じ込むことができるけど、
幸福、幸せはそうじゃない。
 
 
もっと純粋に揺れ動く
感覚や感情に近いところにあって、
だからこそ自分でコントロールはできなさそう。
そういう意味では愛も一緒かもね。
そして、
あとから振り返ってそうだったと気づけたとしても
あとの祭り…っていうところも両者は同じ。
価値や存在意義は
あとからでも気づければ誇りや礎になるけど、
つまり一度見つけたら
簡単には見失ったり手を離したりしないけど、
幸せと愛はするりと出たり入ったりするってことね。
 
 
 
…ぁあ〜
書き続けていたらさらに堂々巡りになってきた。
幸せは別次元に存在してる話だったはずなのに、
愛と幸せが近しくて、
その二つを追い求める話になってきちゃった。
ちがうのだよ。
幸せは、心のかたむけかたと器の調整で
現れたり消えたりするだまし絵みたいなものだ
ってことが言いたかったのだよー。
 
 
まぁとにかく
ふっとつかんだ真理のしっぽは、
つかまったままで放さないでいることが
意外にも骨が折れることなんだってことだ。