おふろはすきじゃない

こないだ会社の人に突然
「急に理由もなくとってもかなしくなることってない?」
と訊かれた。人のざわつく廃校の体育館で。
 
「ありますよー普通に。
わたしネクラ星人なんで」
と学生の頃とおんなじ調子でこたえたら、
その人はおふろにざぶーと浸かった時とかに
突然“それ”がやってくるのだそうだ。
 
結婚をして家族もいて、仕事も順調で子育ても大変ながらも楽しそうに見える。
でもきっとそういう、外側から見えることや言葉で括れることとは、
まったくひとつも関係のないところに
ずっときっともう、生まれた時から内部に持っている、
その人自身の核の色合いみたいなもので、
“それ”に出会うか、出会っても認めるか、認めても言葉にするか、
…みたいなことが決められていっている気がする。
 
 
江國香織のそういう小説ありますよねー」
ってとりあえず言ったけど、
そういう引用がぱっと出る時ってかなり当たりに近い。
それがつい最近触れたわけでもないもののときは特に。
相当わたしの中で印象に残っていたということだし、
相手の言いたいことの深部におそらく一番近づける瞬間。
本のタイトルもあらすじも思い出せないけど、
彼女の言っていた感覚にずいぶん近いはずだと思う。
 
でも、わたしにもある。
どうしようもなくさみしくてかなしくなるとき。
…たとえば昨日の夜はそうだった。
大声をあげて泣ければ楽になるのに…と思いながら。
完全に今回のきっかけはイヤフォンから流れたgのせい…とか言い訳しながら。
 
だけど本当は自分がいちばんよくわかっていて、
どうしようもなくわけもなく多分にかなしくなるのは、
自分を取り囲む(さらにそれは自分自身が生み出してきた)
すべての事象、モノヒト、対自分の関係性のせいだし、
同時にそのどれもが小さな一因にしか過ぎなくて、
わたしがかなしみそのものを内包する人間だから、とも言えるんだと思う。
 
だけどわたしはおふろに浸かった瞬間は
けっこう幸せを実感するほうなので、
なんでかなと考えてみたらそれは、
おふろに入るまでの時間がきらい、というか、
入るまでは入るのがめんどくさくていやで仕方ないからかも!と思った。
 
おふろがきらいなんではなくて、
行程を考えるとただただめんどくさくて避けて通りたい感じが
どうがんばっても否めない。
でも入らなきゃしょうがないから、
かなり“えいやっ”と気合いをいれないと入れない。
だからもう入るまでに気が張ってるのね。
そこをふーって抜く瞬間は“マイナス⇒プラス”への変換しかないから、
だからそこにかなしくなったりはしないんだと思った。
 
“それ”がくるときってほかの人はわからないけど、
その前の瞬間が、美しいくらいの凪の瞬間であることが多い気がする。
フラットでちょっとつめたくて透明で殆ど動いてない。
むしろそこで止めてしまいたいくらいの清冽な静謐。
そんな感情やこころや脳みそが
ふっと凪いだ次の瞬間にすこーんとかなしくなる。
同じように、でも次に心温まる幸せみたいな前向きさに襲われるときもある。
それは大抵片手落ちだったりするんだけども。
でもどちらがくるのか、
ポジとネガとどちらに転ぶのかは、転ぶわたしには選べないし、
そしてどちらも結局抜け切るまではどうしようもない。
 
 
 
なんか、そんなことをふと思ったよ。
みんななんかいろいろ
べつに善いものもやなものもそれなりに持っていて、
でも大人になると随分、持ち物確認みたいなことはしなくなって、
持ってても持ってなくてもそれが当然、どっちでもいー的な顔をしがちだけど、
少なくともわたしは確認したいし、する人を好きだと思う。
口に出して確認することには実は何の意味もなかったりするんだけど、
それでも意味もなく確認したいことってときどきあるし、
意味もないことこそが面白いような気がするから。